聖言の誤謬化
真の基督教208
彼はその霊的な意義を破壊する惧れがあるのは、彼はその知っている僅かな相応によって霊的な意義を歪め、それに強いて誤ったものを確認させ、かくして彼は真理に暴行を加え、従ってその神的真理の住む天界に暴行を加えるからである。
それ故、もし何人でも主の助けを得ないで、その意義を発見しようと欲するならば、天界は彼に閉ざされ、彼はその時真理を一つとして認めなくなるか、或いは霊的狂気に陥るかするのである。
聖書26
[5]「今後聖言の霊的意義は主から純粋な諸真理にいる者にのみ専ら与えられるであろう」。
この理由は何人も主のみによらなくては霊的意義を認めることはできず、また主から純粋な諸真理にいなくてはそれを認めることもできないということである。なぜなら聖言の霊的意義は専ら主とその王国とを取扱っているからであり、これが天界の主の天使たちが認めている意義である、なぜならそれがそこの主の神的真理であるから。もし人間が相応を知って、それにより、また自己の理知から聖言の霊的意義を究めようとのぞむなら、彼はこの意義に暴行を加えることができるのである。なぜなら彼はその知っている若干の相応を通して、その意味を歪め、それをこじつけさえもして、誤ったものを確認して、そうしたことは神的真理に、また天界に暴行を加えることになるからである。それでもし誰でも自分自身からその意義を開こうと望んで、主からそれを開こうと望まないなら、天界はかれに閉じられ、そのときはその人間は何ものも認めないか、または霊的に狂うかするのである。
[2]他の理由は主は聖言によって各々の人間に教えられ、その人間がすでに得ているその諸真理から教えられて、媒介物がなくては新しい真理を注ぎ入れられないということである、それでもし人間が神的な真理にいないなら、またはたんに若干の真理にいるのみで、それと同時に誤謬にいるならば、彼はその真理をその誤謬から誤謬化してしまうのであり、そのことは聖言の文字の意義について凡ゆる異端者により為されたことは良く知られている。それで何人をも聖言の霊的意義に入らせないために、またはその意義にぞくした純粋は真理を歪ませないために、主により警護の者がおかれており、それが聖言ではケルビムにより意味されている。
[3]警護の者がおかれたことは以下のようにわたしに表象されたことがある― (後略)