聖言は人間の中の聖言に対する理解に従って聖言となっている

 

 

1.聖言は人間の中の聖言に対する理解に従って聖言となっている

聖書77

 聖言は人間の中の聖言に対する理解に従って、すなわち、聖言が理解されるままに聖言となっている。もしそれが理解されないなら、聖言は実際聖言と呼ばれはするが、それはその人間のもとでは聖言ではない。聖言はそれに対する理解に従って真理となっている、なぜならそれは誤謬化されるかもしれないため、真理ではないかもしれないからである。聖言はそれに対する理解に従って霊であり、生命である、なぜならその文字は、もし理解されないなら、死んでいるから。そして人間は聖言を理解するに従って真理と生命とを持つように、それに従って信仰と愛とを持つのである、なぜなら真理は信仰に属し、愛は生命に属しているから。さて教会は信仰と愛とによって、また信仰と愛とに従って存在するため、教会は聖言に対する理解を通して、またその理由会に従って教会であることが生まれて来る、すなわち、もし(それが)純粋な諸真理の中にいるならば高貴な教会であり、もし純粋な諸真理の中にいないなら卑賤な教会であり、もし誤謬化された真理の中にいるなら破壊された教会である。