天界と地獄118

 

 主は実さい天界に太陽として見られたまうことは、天使から私は話されたのみでなく、また時折見ることも許されたのである。それで私が太陽としての主につき聞いたり、見たりしたことをここにかんたんに記してみよう。主は太陽として見られたもうが、それは天界の中ではなくて、諸天界の上であり、頭の真上、または天頂ではなくて、天使たちの顔の前の、中程の高さの所であって、明確に区別される二つの所であり、すなわち、一つは右の眼の前の、他は左の眼の前の、非常に遠方の所である。右の眼の前には主は全く太陽のように、世の太陽のような光輝と大きさをもって現れておられる。しかし左の眼の前では主は、太陽としてではなく、月として、我々の地球の月のような大きさと白さをもって、しかしそれよりはさらに輝きつつ、また同じように白くて輝いた、いくたの小さな月のようなものに囲まれて現れておられる。主はこうした相違をもって二つの所に見られたもうのは、主は各々の者に受け入れられるままに、その者により見られるからであって、かくて主を愛の善をもって受ける者たちにより、主は太陽として見られ、それはその受け入れかたに従って火のように、焔のように燃えている。これらの者は主の天的王国にいる。しかし主を信仰の善をもって受ける者によっては、主は月として見られ、それはその受け入れかたに従って、白く、照っている。これらの者は主の霊的王国にいる。その理由は愛の善は火に相応し、ここから火は霊的意義では愛であり、信仰の善は光に相応し、光りもまた霊的意義では信仰であるということである。主は眼の前に現れられるのは、心にぞくする内部は眼を通して見、愛の善からは右の目を通して見、信仰の善からは左の目を通して見るからである。なぜなら天使、また人間における右の物は凡て真理を生む善に相応し、左の凡ては善から発する真理に相応するからである。信仰の善はその本質では善から発する真理である。

 

 

天界の秘義1582

 

何処であれ、主がおられるところ、そこに中心がありそこから右と左とが決定されるのである。かくて主を表象したアブラムがこちらに去り、またあちらに去るにしても、依然表象はかれのもとにあり、地もまたそれと同じであったのである。かくてアブラムはカナンの地にいようと、また他のところにいようとそれは同じことであったのであり、それは丁度最高の位階にある者がテーブルについている場合と全く同一である、すなわち、その最高の場所は何処であれかれが坐っているところにあって、右手と左手の場所はそこから数えられるのである。それで右または左に行くことは選択を提供する形式であり、そのことによって分離が意味されたのである。

 

 

天界の秘義4882[3]

 

 霊界の時間と空間とは生命の状態であり、生命の凡てのものは主から発していることは以下の経験からみとめることができよう。霊と天使とはことごとく右に善良な者を、左に悪い者を見、これはかれが何れの方向を向いても変わらないのである、すなわち、かれが東の方を眺めても、西を、南を、北を眺めても、善い者と悪い者とはそのように現れているのである。このことは凡ゆる霊と天使にも言われる、それでもし二人の者が、その中の一人が東の方を、他の一人が西の方を眺めているにしても、依然その両方の者には善良な者は右に、悪い者は左に現れるのである。その外観は眺められる霊たちから遠のいている者たちにも同一である、たとえその眺められる霊たちがかれらの後にいるにしても。このことから生命の凡ては主から発していると、または主の各々の者の生命の中におられると明らかに結論してよいであろう、なぜなら主はそこには太陽として現れたまい、その右には善良な者が、または羊がおり、その左には悪い者が、または山羊がいるからである。ここからそれは凡ゆる者にも同じようになっているのである、なぜならすでに言ったように主は生命の凡てであられるからである。