恵み
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.ヴァッスーラ
4.ドレックス教授
1.聖書
ヨハネ1・17
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
2.スウェーデンボルグ
スウェーデンボルグ/黙示録講解22
「あなたたちに恩恵[めぐみ]と平安とがありますように」(黙示録1・5)
は真理と善との歓喜を意味している。このことは以下のことから明白である。すなわち、『恩恵[めぐみ]』の意義は真理の歓喜であり(そのことについては以下にすぐ述べよう)、『平安』の意義は無垢と愛との歓喜である(そのことについては「天界と地獄」を参照されたい。そこには天界における平安の状態が取り扱われている、284−290)。『恩恵[めぐみ]』が真理の歓喜を意味しているのは、二つのものが主から発出していて、その起源では結合はしてはいるものの、それらを受ける者たちのもとでは分離しているためである。なぜなら神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちと、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちがいるからである。
神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちは主の霊的な王国の中におり、それで霊的なものと呼ばれているが、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちは主の天的な王国の中におり、それで天的なものと呼ばれている。(天界におけるこの二つの王国については「天界と地獄」の20−28番を参照されたい。)
霊的な王国にいる者たちには真理のために真理を求める情愛の中にいることが主により与えられており、この神的なものが恩恵と呼ばれるものであり、それゆえ、たれでもその情愛の中にいる限り、主の神的な恩恵に浴しており、人間、霊、または天使のもとには、真理に感動する以外の神的な恩恵は決してないのである。なぜならその情愛の中に彼らに対する天界と祝福とが在るからである(「新しいエルサレム」の232、236、238番、「天界と地獄」の395−414番を参照されたい)。
真理の情愛[真理に対する情愛]または真理の歓喜と言うも、それは同じことである。なぜなら歓喜のない情愛はないからである。
黙示録講解22(2)
特にこのことが聖言における「恩恵」により意味されている。例えばヨハネ伝に―
聖言は肉となられて、私たちの中に住まわれた。私たちはその方の栄光を見た。父の独り児の栄光としての栄光であり、恩恵と真理とに満ち満ちていた。その満ち満ちているものから私たちは凡て受けたのであり、恩恵に恩恵を受けたのである。律法はモーセを通して与えられ、恩恵を真理とはイエス・キリストを通して来たからである(ヨハネ1・14,16,17)。
「恩恵と真理」と言われているのは、恩恵は真理の情愛と歓喜であるためである。そしてルカ伝には、主は会堂の中で御自身にかかわるイザヤの予言を説明された後で、以下のように言われている―
凡ての者はその御口から発した恩恵の言葉に驚嘆した(ルカ4・22)
主が話された神的な諸真理が「その御口から発した恩恵の言葉」と呼ばれているのは、それらは受け入れられるものであり、快いものであり、歓ばしいものであるためである。全般的に、神的な恩恵は主から与えられる凡てのものであり、そのようにして与えられる凡てのものは信仰と愛とに関係しており、信仰は善から発した真理の情愛[真理に対する情愛]であるため、そのことが特に神的な恩恵[神の恩恵]により意味されているのである。なぜなら信仰と愛とを、または善から発した真理の情愛を与えられることは天界を与えられ、かくて永遠の祝福を与えられることであるからである。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P201
‘01・12・10
私の企てに驚くには及ばない。 恵みに招かれた者は 三位一体の神と一つになって もはや孤独ではない 私どもが彼のうちに住まうゆえ。 私どもは彼を住まいとする。住まいを定めた私どもは、その者を所有し私どもも彼のものとなる。 このようにしてあなたを呼んだ、娘よ、私どもにたいする讃美と 栄誉となるように、そして仕えるように、それも一、二時間ではなく、一日中間断なく共にいて 我が教会の安寧をたえず模索するように。 あなたの労苦が平和をもたらし 我がすべての言葉が教会の益となり それを通して我が祝福が 教会を美しく飾らんことを。
4.ドレックス教授
天使館/天使のパン15号P35
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1971年2月5日早朝の主の御言葉
わが真の教会における苦悩は深まってきている。悪の根源であるサタンは、私の教会に奉献された僕(しもべ)たちを破壊と混乱の生ける道具として、ますます誘(いざな)い、間違った使い方をしている。
信仰をまもり、聖なる典礼を尊重する司祭の数は減ってきており、召し出しを受けた多くの司祭は異端の毒を食べさせられている。多くの聖地で破壊の恐怖が支配し、冷たい、空虚で傲慢な精神が至聖所から美しさを奪い、温かい心と魂を奪いとっている。
偽りの教義によって人々の信仰を破壊する者たち、聖人や祭壇を捨て、神の代わりに人間の偶像をおく者たちは禍(わざわい)である。多くの信者たちはわが教会に入り込んだ深刻な艱難のゆえに勇気を失い、落胆しかかっている。
このような信者たちに対して私は次のように言いたい。「わが名のために、また聖母マリアの栄光のために苦しみ、信仰の敵たちに勝利することは、偉大なことであり、恵みではないのか?」と。ゴルゴタへの道で私に従った者は誰と誰であったか? 正しく、ゴルゴタへの道は不名誉の道であったが、同時にそれは死、地獄、そして悪魔に打ち勝つ道でもあった。
もし善良な人々が臆病になり、勇気をくじかれ、落胆するなら、それはサタンの勝利となるであろう。
天使館/天使のパン15号P44
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1972年2月4日早朝の主の御言葉
この恵みの時に、天の御父の摂理によって貴方が指名された仕事を私は祝福する。
貴方が書くことを引き受けた本(注:「カトリックの信仰」と題する本)はこの時点では貴方の仕事であり、私の喜びである。その本は混乱に脅かされている信者たちを支え、光を与えるであろう。また、唯一真の教会の信仰に非常に役立つものとなるであろう。
貴方は外面的な気晴らしから遠ざかりなさい。しかし、内的に熱心に求めている霊魂からは離れてはならない。善良な人々の抑圧感は大きい。わが教会の歴史上、これほどまでに内的苦悩が増したことは、かつて無かった。善良な人々の苦しみは、霊魂を殺そうとしているサタンと目に見えない悪霊たちが、奉献に不忠実になっている堕落した司祭たちを道具として使っていることを見ることである。
善良で忠実な神の民が不安になり勇気を失わないように、こうしたことのすべてを私は今告げることはしない。しかし、神の敵たち、混乱者や破壊者たちがその頭をもたげ、舌を鋭くすればするほど、今も私と私の聖母マリアに忠実な者たちは、ますます信仰の告白者とならねばならない。また、神がすべての上にあり、私はご聖体として人々の中に今も生きていること、即ち、現存していることを知らなければならない。また、無原罪の御母には、執り成しの力があり、サタンとその僕たちへの勝利者であることを知らねばならない。また、全世界には無数の善天使たちが目に見えない形で働いていることも知らねばならない。さらに、今も祈り、犠牲を捧げ、戦っている善良な人々や天の御母の息子や娘たちが多く居ることを知らなければならない。
このような人々にこの世で与えられる恵みは内的平和であり、善き良心、神を讃美する喜びである。彼らは私の聖心の愛にまもられ、聖母マリアもその人たちを上から見まもり、祝福されている。