目を覚ましていなさい

マルコ13・33

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

1.聖書

 

マルコ13・32−37

 

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それはちょうど家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分らないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。

 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。

 

 

黙示録3・2−3

 

目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしはいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。

 

2.スウェーデンボルグ

 

黙示録講解187イ

 

(黙示録3章)2節「目をさましていなさい」は彼らは自らのために生命を得なくてはならないことを意味している。このことは『目を覚ましていること』の意義から明白であり、それは霊的な生命[生活]の中にいることであるが、しかしここでは、その生命[生活]は道徳的ではあるが、未だ霊的ではない者らが取扱われているからには、『目を覚ましていなさい』は彼らは自らのために霊的な生命を得なくてはならないということである。この生命が『目を覚ましていること』と『目覚めていること』により意味されているのは、霊的な生命は、霊的な生命から分離している道徳的な生命に対しては、目覚めていることが眠りに対する、または真昼時の光が夕に、実に暗黒に対する関係に置かれているためである。しかしそれがそうであることは、自然的な生命の中にのみいる者らによっては知られも、または認められもしないし、霊的な生命から分離した道徳的な生命の中にいる者らによっても認められはしないのである、なぜならこの生命もまた自然的な生命であるからである。

 

彼らがそのことを知りはしないし、または認めはしないのは、彼らは自然的な光(ルーメン)の中にのみいて、この光は霊的な生命に比較すると、夕の暗黒が真昼時の光に対する関係に等しいためである。さらに、そうした者らには暗黒は光のように見えるのである、なぜなら彼らの内的な視覚は―それはその思考の視覚であるが、それは―その暗黒に適応していて、そのことは丁度ふくろ、こうもり、夜間飛び回る他の鳥の視覚が暗がりに適応していることに全く似通っているからである。

 

従って、彼らは、論じることが出来るため、自ら光の中にいると信じてはいるものの、暗黒の中にいるのである。それがそうであることは、こうした者らが霊となる死後のそうした者らの状態から明らかである。その時彼らは、その仲間と共になる時は、その周囲に在る全ての事柄を見るのみでなく、また何であれいかような事柄についても考え、話すことが出来るため、自らは光の中にいる、と信じはするものの、その光は、天界の光が彼らのもとへ流れ入ってくると、暗黒に変わってしまい、彼らはその理解の方面では全く考えることは出来ない程にも盲目になってしまうのである。さらに、諸天界にいる天使たちがそうした光の中にいる者らを見下ろすと、彼らは単なる暗黒以外には何一つそこには見はしないのである。

 

霊的な生命は霊的な生命から分離した道徳的生命に比較されると、それは目覚めている状態が、眠りに比較されるようなものであることは、更に以下のことから認めることが出来よう、即ち、霊的な光の中にいる者たちは天使の持つ知恵と理知の中におり、その知恵と理知とは自然的な光の中にのみいる者らには把握出来ないもの、言語に絶したものといったものであり、しかもそのことは人間のもとに、その者が世に生きている間にも起るのであり、またその人間が死後霊となる時も、その者のもとに起るのであり、その時は理知と知恵とが目を覚ましている状態を構成しているのである。このことから、ここの『目を覚ましていなさい』は、彼らが彼ら自身のために霊的な生命を得なくてはならないことを意味していることを認めることが出来よう。

 

 

黙示録講解187ロ(2)

 

以下の記事でも『目をさましている』ことは同じような意義をもっているのである。

マタイ伝には―

 

それで、目をさましていなさい、あなたは何時主が来られるかを知らないからである(24・42)

 

マルコ伝には―

 

目をさましていなさい、あなたらは家の主人が来るときを、夕か、または真夜中か、または鶏の鳴く頃か(そのときを)知らないからである、不意に彼は来て、あなたらが眠っているのを見られしないためである。わたしがあなたらに言うことは凡ての者に言うのである、目を覚ましていなさい(13・35−37)

 

聖言の内なる意義を知らない者は、こうした言葉は最後の審判に言及しており、たれもがそのために備えをしなくてはならない、と信じるであろう、しかし人間が死ぬときの、愛と信仰との方面のその者の状態がその言葉により言及されているのである、なぜならその時がその審判であるからである。

 

『夕』、『夜』、『鶏の鳴く頃』はそうした状態を意味しており、『夕』は信仰と仁慈とが衰えて行く状態を意味し、それは人間が自分自身の判断を行使して、子供時代に吸引した事柄を自分自身の中に消滅させつつある時のその状態であり、『夜』は信仰と仁慈とが皆無である状態を意味し、『鶏の鳴く頃』または『夜明け[暁]』は信仰と仁慈とが初まりつつある状態であり、それは人間が真理を愛し、真理により改良されようと願う時である。人間はいかような状態の中で死ぬにしてもその状態の中に人間は止まるのであり、その状態に従って審判かれるのである。

 

このことから、『主が不意に来られて、あなたらが眠っているのを見られないように、目を覚ましていなさい、わたしがあなたたちに言うことは凡ての者に言うのである、目を覚ましていなさい』により意味されていることは明白である、即ち、『目を覚ましていること』は主から生命を受けることであり、その生命は霊的な生命であり、『眠ること』は霊的な生命から分離した自然的な生命に生きることを意味しているのである。(『夕』は信仰と仁慈とが衰えて行く状態を意味していることについては、「秘義」、3056、3197、3833、8431、10134、10135番を参照し、『夜』は信仰または仁慈が皆無の状態を意味し、221、709、2353、6000、7870、7947番、朝の前の『夜明け』または『鶏の鳴く頃』は信仰と仁慈とが初まりつつある状態である、10134番)。

 

 ルカ伝には―

 

 祝福されている、主が来るとき、主から目を覚ましているのを見られる僕たちは。まことにわたしはあなたらに言います、主は自らに帯を締め、彼らを(椅子に)寄りかからせて食べさせ、近づいて来て、彼らに仕えるでしょう。備えをしていなさい、あなたたちが(来はしないと)考えている時間に人の子は来るからである(12・37,40)。

 

ここにもまた、『目を覚ましている』者たちは霊的に目を覚ましている者たちを、即ち、主から霊的な生命を受ける者たちを意味している、なぜならこうした者たちは神的な諸真理について理知と知恵の光の中へ入って来るが、しかし霊的な生命を受け入れない者らはその諸真理については暗黒と暗闇との中に止まり、それで、これらの者は、前の者たちは目覚めているに反し、眠っているのである。主が

『自らに帯を締めて、彼らを椅子に寄りかからせて食べさせ、近づいて来て彼らに仕えられること』は、天界の諸善を―それらは凡て主から発しているが、それらを―彼らに伝えられることを意味している。

 

 

黙示録講解187ロ(4)

 

マタイ伝には―

 

天国[天界の王国]は十人の処女に似ており、その中の五人は思慮に富んでいたが、五人は愚かであった。花婿がひまどっている間に、彼らは凡てまどろみ、眠ってしまった、しかしその花婿が来られると、彼らは凡て起き、その燈を整えた。その燈の中に油を持たなかった愚かな者らは来て、主よ、主よ、私たちに開いて下さい、と言った時、主は、わたしはあなたたちに言います。わたしはあなたたちを知りません、と答えた。それで目を覚ましていなさい、あなたらは人の子が来る日時間も知らないからである(25・1−13)

 

 『十人の処女』により教会に属している凡ての者が意味されており、『五人』により彼らの中の若干の者が意味され、それがその数の意味していることであり、『燈』により信仰の事柄が意味され、『油』により愛の事柄が意味されている。それで『五人の思慮のある処女』により、愛の中におり、そこから信仰の中にいる者たちが意味されているが、しかし『五人の愚かな処女』により、愛の中には全くいないで、信仰のみの中にいる者たちが意味されているのである。こうした者らは信仰のみの中にいるため、何ら霊的な生命の中にはいないため―なぜなら愛と仁慈との中にいる者のみが霊的な生命を持っているからであるが―それでこうした者らは天界から閉め出されてしまうため、彼らは『わたしはあなたらに言います。わたしはあなたらを知りません』と言われているのである。

 

このことから、『それで、目を覚ましていなさい、あなたらは人の子が来る日も時間も知らないからである』により意味されていることが極めて明白である、すなわち愛の中におり、そこから信仰の中にいる者たちが霊的な生命を受け、それを得るのである。(しかしこれらの事柄はさらに充分に「秘義」、4635−4638番に説明されているのを見ることが出来よう。

 

 

黙示録講解187ロ(5)

 

ルカ伝には―

 

 それで目を覚まし、凡ゆる時に祈りなさい、起ってくるこの凡ての事を逃れて、人の子の前に立つにふさわしいものと見なされるためである(21・36)

 

ここにもまた『目を覚ましていること』は、霊的な生命を受けることを意味し、『凡ゆる時に祈ること』は自ら整えることを意味している。

 

 

黙示録講解187ロ(6)

 

黙示録には―

 

見なさい、わたしは盗人のように来ます。祝福されています、裸になって歩かないように目を覚まして、着物を守っているものは(16・15)

 

ここに『目を覚ましていること』は、主から霊的な生命を受けることを意味しており、そのことは『祝福されています、裸になって歩かないように、目を覚まして、着物を守っている者は』と言われていることから明白であり、『着物[上着、衣服]』は、人間が霊的な生命を得る手段である真理と善とに関わる知識を意味し、『裸で歩くこと』は手段としてのこうした意識を欠いた生命を意味し、かくて霊的なものではなくて単に自然的なものである生命を意味している。(『着物』は真理と善とに関わる知識を意味していることについては、下記の195番を参照し、『裸』によりそうした知識を剥奪されていることが意味されていることについては『秘義』、1073、5433、5954、9960番を参照されたい)。

 

 

黙示録講解187ロ(7)

 

哀歌には―

 

起きて、夜警の時間の初まりに声高に叫べよ、あなたの幼児[乳呑児]の魂について主に向かってあなたの手を上げよ、幼児は凡ゆる街路の先端に飢えて弱り果てているからである(2・19)

 

ここでも、前のように、『夜』は何ら信仰のない状態を意味し、『夜警の時間の初まり』は信仰が初まる状態を―意味している。『幼児[乳呑児]』により真理を愛し、真理を切望している者たちが意味されており、『凡ゆる街路の先端[頭]に飢えて弱り果てること』は真理と善とに関わる知識を欠いているため霊的な生命を剥奪されることである。(『飢え』は知識を欠如し、それを切望することを意味していることについては、「秘義」、1460、3364、5277、5279、5281、5300、5360、5376、5893番を参照、『街路』は教義の真理である、2336番)。

 

 

黙示録講解187ロ(8)

 

『目を覚ましていること』は霊的な生命を受けることを意味しているため、それで『眠ること』は、霊的な生命から分離した自然的な生命を意味している、なぜなら、自然的な生命は霊的な生命と比較するなら、前に言ったように、目覚めている状態と比較された眠りのようなものであるからである。そのことがマタイ伝の『眠ること』が意味しているものである―

 

諸天界の王国[天国]は畠に善い種子をまいた人間に似ている、人々が眠っている間に敵が来て、その小麦の間に毒麦をまいた(13・24,25)

 

エレミア記には―

 

かれらが温かになったとき、わたしは彼らの宴を定め、彼らを酔わせよう、彼らが代の眠りにつき、目覚めないためである(51・39,57)

 

ダビデの書には―

 

見てください! わたしの神エホバよ、わたしに答えてください、わたしが死の眠りにつかないためにわたしの目を明るくしてください(詩篇13・3)

 

同書に―

 

心の強い者も掠奪されたものとなった、彼らはその眠りについた、あなたの叱責により戦車と馬とは深い眠りに陥ってしまいました(詩篇76・5,6)

 

『戦車と馬』は教会の教義と教義の理解とを意味し、これらのものは、諸真理を欠如もする時、従って教会の人間が諸真理による霊的な生活を得ないときは、『深い眠りに陥る』と言われるのである。

 

(『戦車と馬』は聖言では教義と知的なものを意味していることについては「白馬」、1−5番を参照されたい。)

 

 

黙示録講解1006

 

「目覚めている者は幸いである」(黙示録16・15)は、主を注視している者たちの幸福な状態を意味している。このことは以下から明白である、すなわち、『幸』の意義は幸な状態にいることであり、また『目覚めている』の意義は自分自身のために霊的生命を得ることであり(187番を参照)、このことは人間が主を注視することにより得られるのは、主は生命そのものであられ、主のみから永遠の生命が発するためである。人間が主から発する生命の中にいる時は、目覚めている状態の中にいるが、しかし人間が人間自身から発する生命の中にいる時は眠っているのであり、または、同じことではあるが、人間は霊的な生命の中にいる時は、目覚めているが、しかし霊的な生命から分離した自然的な生命の中にいる時は、眠っており、人間がその時見るものは、人間が夢の中に見るものに似ているのである。この生命に生きることは聖言の中では『眠ることとうたたねすること』によりまた意味されている(例えばマタイ13・25,25・5,6、マルコ4・26,27,13・36、イザヤ5・27、エレミヤ51・39、57、詩篇13・4,76・7、その他)。このことは『目覚めていること』により意味されていることを明らかにしている。