祭り
出エジプト23・14−19
あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。また、祭りの献げ物の脂肪を朝まで残しておいてはならない。あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。
天界の秘義9285
『一年に三度あなたはわたしに祭りを守らなくてはならない』は、堕地獄(の状態)から解放されたために絶えず主を拝して、感謝を捧げることを意味し、『種を入れない物の祭りをあなたは守らなくてはならない』は、誤謬から清められたために拝し、感謝することを意味し、『七日』はそのときの聖い状態を意味し、『あなたは種を入れない物を食べなくてはならない』は、誤謬から清められた善を己がものとすることを意味し、『わたしがあなたに命じたように』は、秩序の法則に従って、を意味し、『アビブの月の定まった時に』は、新しい状態の初めから、を意味し、『そのときあなたはエジプトから出て来たからである』は、誤謬にとりつかれて悩まされたことから解放されたことを意味し、(後略)
天界の秘義9286
「一年に三度の祭り」
「祭り」
堕地獄の状態から解放されたために主を拝し、感謝をささげること。
「三度」
終りにさえも至る充分な状態。
天界の秘義9286[3]
堕地獄の状態から継続的に解放される段階は、再生は主により地獄から解放されて、天界へ入れられることであるため、再生の継続的な段階と事情が似ているのである、なぜなら再生しつつある人間は先ず誤謬から清められ、次に信仰の諸真理がその人間のもとで仁慈の善の中に植え付けられ、最後にこの善そのものが植え付けられるのであり、このことが行われると、その人間は再生したのであり、そのとき主とともに天界にいるからである。それで『一年の三度の祭り』によりまた再生したために、主を拝し、主に感謝することが意味されたのである。
天界の秘義9287
「たねを入れない物の祭り」(過越しの祭り)
誤謬から清められたため礼拝し感謝すること
天界の秘義9294
「初穂の収穫の祭り」(数週の祭り)
「収穫」
真理が実を結ぶこと、かくて真理を善の中に植えつけること
「初穂」または「業の初め」
教えの最後のものであり、生命の最初のもの
「種をまく」
教えること、教えられること
天界の秘義9294
再生により人間は地獄から解放されて天界へ導き入れられる。
「たねを入れない物の祭り」と呼ばれた最初の祭りは誤謬から清められること
第二の祭りは善の中に真理を植えつけられること
第三の祭りは善が植えつけられること
人間は再生の間に自己と世への愛の悪から発生する誤謬から先ず清められるが、そのことは彼が悪と地獄と堕地獄について、また善と天界と永遠の幸福について教えを受けることにより、かくして彼自身が悪を行い意志し、考えないように抑制されることに堪えることにより行われるのである。土壌がこのように備えられると、そのとき信仰の諸真理がまかれるのである。なぜならそれ以前ではその諸真理は受け入れられはしないからである。
しかしまかれた諸真理は善の中へ植えつけられなくてはならない。なぜならその諸真理は他の何処にも土壌をもってはいないし、また他の何処にも根をはることもできないからである。その諸真理はその人間がその真理を意志し(欲し)、それを愛し、それを行うとき善の中に植えつけられるのである。再生のこの状態が、または堕地獄の状態から解放されたこの状態が「あなたの業の初穂の収穫の祭り」と呼ばれている。なぜなら「収穫」は善を生み出す諸真理を意味しているからである。
諸真理が善の中に植えつけられるとその人間はもはや主により真理を手段として導かれはしないで、善を手段として導かれるのであり、そのことはかれが善を意志し、愛の情愛から、すなわち仁慈から善を行う時行われるのである。再生のこの状態が、または堕地獄から解放されたこの状態が「取り入れの祭り」と呼ばれる第三の祭りにより意味されている(幕屋の祭り)。
天界の秘義9296
幕屋の祭り、地の実を取り入れる祭り
仁慈の善がその中に宿っている新しい意志は主の住居であり、従って人間における天界であり、そこから派生してくる新しい理解は主がそれを通って入られ、また出られる幕屋のようなものであるから。
「あなたが畠からあなたの業をとり入れる」
善の中に植えつけられた凡ゆるものを楽しみ用いること