魔法

 

天界の秘義6692〔2〕

 

 魔法は秩序を歪曲すること以外の何ものでもなく、特に相応した物を濫用することである。主から発出している諸善と諸真理とが人間により受け入れられねばならないことが秩序である。このことが為される時、その人間の意図し、考える凡ゆるものの中に秩序が存在するのである。しかし人間は主から発出している秩序に従って善と真理を受け入れはしないで、凡ゆる物が盲目的に流れ入っているものであって、何か決定した物が生れるなら、それはその人間自身の深慮から発していると信じるなら、彼は秩序を破壊するのである、なぜなら彼はただ自分自身のことのみを顧みて、隣人のことを、その隣人が自分の益とならない限り、(全く)顧みないで、秩序の事物を自分自身に適用するからである。ここから、驚くべきことを言うのではあるが、凡ゆるものは自分自身の深慮から発して、神の摂理からは何一つ発していないという考えを自分自身に堅く印象づけた者は凡て、他生では容易に魔術に耽って、為し得る限りそれを(他にも)吹き込むのである、特にこのことは自分自身を信頼して、凡ゆるものを自分自身の深慮に帰した結果、種々の術策を弄して、自分自身を他の者の上に持ち上げた者らには甚だしいのである。こうした人間は他生で審かれる時は、彼らは魔法使いの地獄に向って投げ込まれるが、その地獄は足の裏の下の右手の、やや前方の下に在って、非常な距離にのびており、その最低の深い所にエジプト人がいるのである。それでここから『パロ』、『エジプト人』、『エジプト』により教会の諸真理に対立した記憶知が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義7296

 

『魔術師』の意義は神的秩序を歪める者らであり、かくて秩序の法則を歪める者らである。魔術と魔法とはそれ以外のものでないことは、魔術師らから、特に彼らが充満している他生の彼らから認めることが出来るのである。なぜなら身体の生命の中で狡猾なことを行い、他を欺くために色々な術策を考案し、遂にはその成功から一切の物を自分自身の深慮に帰した者らは、他生では、魔術を学ぶのであるが、それは神的秩序の濫用以外の何ものでもなく、特に相応したものの濫用以外の何ものでもないのである。なぜなら一切の物が相応していることが神的秩序に応じているからである、例えば、手、腕、肩は力に相応しており、そこから棒も力に相応しているのである、それで彼らは自分自身のために棒を作り、また表象的に肩、腕、手を示し、そのようにして魔術的な力をふるい、また他の無数の事柄を用いてそうしたことを行うのである。

 

 

天界の秘義7297

 

『魔法』の意義は秩序を歪める術策そのものである。『魔術師』、『魔術』が聖言に記されているときは、それにより、誤謬をそれが真理として現れるように示し、真理をそれが誤謬として現れるように示す技術が意味されており、それは特に妄想により行われるのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説462

 

現今『魔法』の意味が知られていないので、それを簡単に説明しよう。『魔法』は前の記事には、十戒の八番目の教えの『あなたは偽証を立ててはならない』に代わって記されているのである、なぜなら他の三つの悪、すなわち、『殺人』、『淫行』、『窃盗』がそこに記されているからである。『偽証を立てる』は、自然的な意義では偽証人の役割を演じることであり、悪が善であると確認して、そのことを説きつけることを意味しており、そこから『魔法における[たぶらかす]』により、誤ったものを説きつけて、真理を破壊することが意味されていることが明白である。魔法は古代人の間で用いられ、三つの方法で行われた、すなわち、第一に、彼らは他の者の心と聴覚とをその者の言葉と話とに絶えず集中させておくが、彼らからは全く注意を外らさぬようにすると同時に、その言葉の音声へ、息によって情愛と連結した思考を吹き込み、そのためそれを聞いている者は何ごとも自分自身から考えることができなくなり、かくしてその誤謬化の当人らがその誤謬をむりやりに注ぎ入れたのである。

第二に、彼らはその確信していることを注ぎ入れたが、それは心を(その確信していることとは)反対の一切の物から遠ざけて、彼らの言ったことの考えに注意を専ら集中させ、かくてその者の心の霊的スフィアが他の者の心の霊的スフィアを追払って、それを窒息させてしまうことにより行われたのである。これは古のマギ[博士]らが用いた霊的な幻惑[魅惑]であり、理解を縛りつけ、結びつけることと言われたものであった。こうした種類の幻惑は霊または思考にのみ関係していたが、前のものは唇または言葉にも関係していたのである。

 第三に、その聞いている当人が話している者から何一つ聞かないように殆どその耳を閉じてしまうほどにも、その者自身の意見にその心を固定させたのであり、それは息を殺すことにより、時としては声を立てないで口の中でぶつぶつ言うことにより、かくて己が論敵の気持ちを絶えず否定することによって行われたのである。こうした種類の幻惑は他の者の言葉を聞く者らにより行われたが、前の二つは他の者に話し掛ける者におり行われたのである。こうした三種類の幻惑は古代人の間に盛んに行われ、今も奈落の霊どもの間に盛んに行われているが、しかし世の人間たちのもとではただ第三の種類のもののみが残っており、しかもそれは、自分自身の理知を誇って、そのため宗教の誤謬を確認した者らのもとに行われているのである、なぜならこれらの者は、(自分の意見に)反対の事柄を聞くと、それを己が思考の中へは、その思考に単に少しく接触させる以上には入れはしないで、その心の内なる奥所からいわば火のようなものを吐き出して、その反対意見を焼き尽くしてしまうが、そのことについては他の者は、その幻惑家[妖術家]が空とぼけて、その火を、またはそれと同じのその者のプライドから発した怒りを抑えつけるなら、その容貌やその答えに含まれている声音から示されなくては、何一つ知りはしないのである。こうした種類の幻惑は今も働いていて、真理が受け入れられないようになっており、多くの者のもとでは、理解されないようになっている。古代には多くの魔法が盛んに行われ、その中に幻惑も行われていたことは、モーセの書から明白である―