天界の秘義863

 

「ノアはその作った箱舟の窓を開いた。」(創世記8・6)これは信仰の諸真理がかれに現れた第二の状態を意味していることは前の節の最後の言葉、すなわち、「山々の頂きが現れた」から、その言葉の意義から明らかであり、また同じく『窓』の意義が(655番参照)理解であり、またはそれと同一の、信仰の真理であることから明らかであり、同じくこれが光が初めてさしはじめたことであることから明らかである。『窓』により意味されている理解、または信仰の真理については、ここにも前のように以下のように言ってよいであろう、すなわち、真の理解は意志に属した物から発しなくてはあり得ないため、信仰の真理は愛または仁慈の善から発しなくてはありえないのである。前にしばしば示されたように、もし意志に属したものを除くならば、理解は存在しない、それで仁慈を除くならば、信仰は存在しないのである、しかし人間の意志は欲念そのものであるため、かれの理解に属したものが、または信仰の真理が欲念の中に浸されてしまうのを防ぐために、主は人間の理解に属したものが意志に属したものからある手段により分離されるように奇しくも配慮されたのであって、その手段とは良心であり、その中に主は仁慈を植えつけられることができるのである。この奇しい配慮がなかったならば何人も救われ得なかったのである。

 

 

天界の秘義3391[2]

 

 『窓』は、一語で言うなら、知的な事柄と呼ばれているところの、内なる視覚の事柄を、すなわち、理解の事柄を意味していることは、655番に引用された聖言の記事から明白であり、さらに以下の記事からも明白である。ヨエル書には―

 

 かれらは都をあちらこちらと走りまわるであろう、かれらは壁の上を走るであろう、かれらは家へよじのぼって入るであろう、かれらは盗人のように窓から入ってくるであろう(ヨエル2・9)。

 

 これは教会の最後の日[時代]のいくたの悪と誤謬とを語っており、『家の中へよじ上って入ること』は意志のいくたの善を破壊することを意味し(『家』が意志のいくたの善を意味していることは、前の710、2233、2334番に見ることができよう)、『窓から入ること』は理解にぞくしている真理とその知識を破壊することを意味している。