究極的なもの

 

終結

 

 

 

1.人間の中には秩序の究極的なものが在る

2.内的なものはその上に終結し、かくてその上に静止している

3.そこにその内的なものが存続できる一つの面を形作っている

 

4.行い

 

 

 

 

 

1.人間の中には秩序の究極的なものが在る

 

 

天界と地獄315

 

神的秩序について教えられる者はまた人間は天使となるように創造られたことを理解することが出来る、なぜなら人間の中には秩序の究極的なものが在って(304)、その中に、天界的な、天使的な知恵に属するものが形作られ、更新され、また増大されることも出来るからである。神的秩序は決して途中で停止して、そこに究極的なものもなしに何かを形作りはしないで―なぜならそれはそこではその完全と完成とを持たないから―究極的なものへ進み、そしてそれがその究極的なものに達すると、そのとき形をとり、またそこに集められている手段によりそれ自身を更新し、更に増大させるが、そのことは生殖により行われている。それゆえ、究極的なものの中に、天界の苗床が存在している。

 

 

 

 

2.内的なものはその上に終結し、かくてその上に静止している

 

 

天界の秘義9215

 

『それを着て彼は眠る』(出エジプト記22・26)。これはそれらのもの[感覚的なもの]の上に静止していることは『眠ること』の意義から明白であり、それは静止することであって、ここでは『上着』により意味されている外なる感覚的なものの上に静止することである(9211番を参照)、なぜなら『彼がそれを着て眠る上着』と言われているからである。内的なものが感覚的なものの上に静止していることはいかように理解しなくてはならないかを述べよう。感覚的なものは、前に言ったように、人間の生命の究極的なもの[最も外なるもの]である。これは内的なものを凡て含んでおり、それらのものに共通しているのである、なぜなら内的なものはその上に終結し、かくてその上に静止しているからである。例えば皮膚がそうしたものであって、それは身体の究極的な[最も外なる]覆いとなっている、なぜならそれは身体の内的なものを含んでいるため、その中にそれは終結しており、それでまたその上にそれは静止しているからである。身体の腹膜の場合も同じである、即ち、この膜は腹部の内臓を含んでいるため、内臓はその上に静止し、またそれと全般的な関連を持っているのである。胸部の内臓に対する肋膜も同じである。

 

 

 

天界の秘義9216[3]

 

更に各々の、また凡ての物は最初のもの、または最も内なるものからその究極的なもの[最も外なるもの]へと継続的に進んで、そこに静止しており、また先在的な、または内的なものは継続的な秩序をもって究極的なものと関連していることを知られたい。それでもし究極的なものが除かれるなら、内的なものもまた消散してしまうのである。ここからまた三つの天界が在り、最も内なる、または第三の天界は中間の、または第二の天界へ流れ入り、中間の、または第二の天界は第一の、また究極的な天界へ流れ入り、更にこの究極的な天界は人間のもとへ流れ入っているのである。従って人類は秩序では最後のものであり、その中に天界は終結し、またその上に静止している[その上に基礎の基礎4]のである。それで主は人類の間に教会が存在して、その教会の中に、私たちの地上では聖言であるところの、啓示された真理の神的なものが存在するように、絶えずその神的なものから配慮され[供えられ]ているのである。この聖言により人類は絶えず諸天界と関連しているのである。それゆえ聖言の細目の各々の中には内意が存在し、それは天界のためのものであり、天使たちの心を人間の心に、その両方の心が一つとなって活動するほどの密接な絆により結びつける性質を持っているのである。このことから内的なものが究極的なものの上に静止する[基礎づけられ]実情のいかようなものであるかが再び明白となっている。

 

 

 

 

3.そこにその内的なものが存続できる一つの面を形作っている

 

 

天界の秘義9836[2]

 

イスラエルの子孫の名を彫ったこの宝石が霊的な王国の外なるものを表象したエポデの肩の布の上に置かれたことは、維持することはことごとく究極的なものの状態に依存しているという理由によったのである。なぜなら内的なものはことごとくそこに停止し、そこにその内的なものが存続できる一つの面を形作っているからである。究極的なものは全身がその上に立つ足の裏と足のようなものであり、また身体がその力を揮う手段ともなり、また身体からその力を注ぎ入れられる手と腕のようなものである。

 

 

 

天界の秘義9836[3]

 

力が究極的なものの中に宿り、内部をその状態の中に維持することもその中に宿ることは自然界の継続的な、引いては同時的な物の実情を知っている者たちにより理解されることが出来よう、即ち、継続的なものは終には[最後には]同時的なものを究極的なものの中に形作り、その究極的なものの中にあってはこの継続的なものは同じような秩序をとって互いに並存しているのである。それで究極的なものである同時的なものは、先在的なものである継続的なものがその上によりかかり、かくしてそれによって維持されるところの、(継続的なものに)相応した支柱として仕えているのである。

 

 

 

主の聖言11

 

自然的なものと霊的なものと天的なものとは相応したものによらなくてはいささかも一致していないといったものであり、そのことがまた以下のことの理由ともなっているのである。即ち、人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間と共になっていることを知ってはいないのである。が、それにもかかわらず、彼らは絶えず共になっているのである。なぜなら人間はその思考と情愛の方面では霊たちの真中にいない限り一瞬間も生きることは出来ないし、霊もまた天使も人間と共にいない限り一瞬間も生きることは出来ないからである。その理由は最初のものから究極のものに至るまでも、かくて主から人間に至るまでも不断の連結があり、創造から発している連結は相応したものにより遂行されていて、天使たちと霊たちとを通して流れ入っているためである。天的なものはことごとく霊的なものへ流れ入り、霊的なものは自然的なものへ流れ入って、形体的なものと物質的なものであるところのその自然的なものの究極的なものの中に終結して存続するのである。こうした究極的なものが―その中へ媒介的なもの[中間的にあるもの]が流れ入っているのであるが、そうした究極的なものが―なくては、空中に建てられた家のようなもの以外の存続は有り得ないのであり、それで諸天界の基底と土台とは人類である。

 

 

 

 

4.行い

 

 

天界の秘義9824[3]

 

このことは人間の意志と思考と活動にも言われるのである。意志する[欲する]ことが最初に来、考えることが第二に来、行うことが究極的なものとなっており、究極的なものは結果であって、その中に先在的な、または内的なものが同時的な秩序をもって出現しているのである。なぜなら行為がその行為そのものの中にその人間が考えていることと欲していることとを含んでいるに応じて、内的なものはその形とその関連性をもって共に結合されているからである。人間はその行為に従って、またはその業に従って審判されるであろうと聖言に言われていることはそのためであり、それは人間はその思考と意志とに従って審判されることを意味しているのである、なぜなら思考と意志とは霊魂が身体の中に存在しているように人間の行為の中に存在しているからである。それで内的なものは究極的なものの中に同時的に提示されているため、すでに言ったように、もし秩序が完全であるなら、究極的なものは内的なものよりも聖いと考えられることが生まれてくる。なぜならその中に内的なものの聖さが完全なものとなっているからである。

 

 

 

天界の秘義9824[4]

 

内的なものは究極的なものの中に共に存在しているため(例えば、今し方言ったように、人間の思考と意志とはその行為または業の中に共に存在しているため、または霊的の事柄に関連しては、人間の信仰と愛もそうしたものであるため)、それでヨハネは主から他の弟子たちにもまさって愛され、主の御胸によりかかったのであるが(ヨハネ13・23、21・20、22)、それはこの弟子は仁慈の業を表象したためである(創世記18章と22章の序言、また3934番を参照)。ここから完全な秩序をもった外なるもの、または究極的なものが、個々に観察された場合の内的なものよりも聖い理由もまた明白となるのである。なぜなら主は究極的なものの中におられるとき、凡ゆるものの中にも同時的におられ、そして主がこの究極的なものの中におられるとき、内的なものは共に結合されてその秩序、関連、形をとっており、主の御意志のままに指示され、導かれているからである。これが9360番に意味されていることであり、そこを参照されたい。