究極的な真理
天界の秘義5008[7]
このことから究極的な霊的な真理は自然的な人から見られたさい、いかような性質のものであるかが明らかである、すなわち、それは上着のようなものであり、この上着が取り去られると、自然的な人と霊的な人とはいささかも一致していないし、従って霊的な人は自分自身を自然的な人から防禦する手段となるものを何一つもはや持ちはしないのである。このことがヨセフがその上着を棄て去ったとき逃れて、外に出ていったことにより意味されているのである。なぜなら単に自然的な人は内的な事柄を承認しないのであり、それで外的なものが取り去られ、また取り上げられると、その両方の者は直ぐにも分離してしまうからである。さらに、自然的な人は、霊的な人が究極的な真理を確認するに当ってその手段とする物を凡て誤謬と呼ぶのである、なぜなら霊的な光のものである事柄を自然的な光から見ることは不可能であるため、かれは自分が確認するものは実際そうしたものであるが、否かを認めることはできないからである。このことは[自然的な光から霊的な光のものであるものを見ることは]秩序に反しているのである、しかし自然的な光の中に在る物が霊的な光から見られなくてはならないことは秩序に順応しているのである。
天界の秘義5028
自然的な人は究極的な真理により霊的な人といわば連結してはいるが、それでも連結はしていないことは前に見ることができよう(5009番)、なぜなら霊的な人はこの真理を明らかにすると、その相違が明らかになるからである。
天界の秘義5028[2]
前に(5008番)引用した例で説明しよう。自然的な人のみでなく霊的な人も貧しい者、やもめ、孤児を助けなくてはならないと言うが、しかし霊的な人は、性質が悪くて、自分自身を乏しいと呼んではいるものの富んでいるところの貧しい者や、やもめや、孤児を助けなくてはならないと考え―なぜならそうした場合かれらはただ名前で欺くからである―それでかれは聖言の『貧しい者』、『やもめ』、『孤児』により霊的にそのような者が意味されていると結論するのである。しかし自然的な人は、貧しい者、やもめ、孤児と呼ばれているそうした者たちを助けなくてはならない、聖言にはそれらの者しか意味されていないと考えて、かれらが悪い人間であるか、善い人間であるかを問題ともしないで、精神的にそのようなものであることとは何であるかを知らないし、また知ろうともしないのである。このことから、貧しい者、やもめ、孤児は助けられねばならないという究極的な真理は両者には同じもののように見えることは明らかではあるが、しかしそれが明らかにされると、異なっており、それが異なったものとなって、分離がおきると、それは自然的な人には、霊的な人が近づいたことを証明するものまたは立証するものとして役立つのであり、ここからかれは霊的な人にむかって誤ったことを語るが、霊的な人は自分自身を防禦する物をもはや何ら持たないのである。
天界の秘義5028[3]
また以下の例を考えてみよう。自然的な人と同じく霊的な人も隣人を助けなくてはならないと言い、また各人が隣人であるとも言いはするが、しかしかれは人は各々他の者とは異なった関係と度における隣人であり、悪い人間が自分自身を隣人であると呼んでいるからといって、これに援助を与えることは隣人に危害を与えることであると考えるのである。自然的な人は、隣人を助けなくてはならないという究極的真理によっても、霊的な人にかれ自身を連結させはするが、しかしかれは自分に益を与える者が隣人であると考えて、その者が善であるか、悪であるかは問題にしないのである。このことからも、この究極的な真理においてはかれらは外観的には連結はしているが、しかしそれにも拘らず何ら連結はないのであり、そのことが説明されるや否や、分離が生まれることは明らかである。それでこの究極的な真理は自然的な人には、霊的な人が自然的な人を謂わば愚弄したという証明として役立つのである。