天界の秘義1285

 

「全地は一つの唇をもっていた。」

これは至る所に全般的には一つの教義があったことを意味していることは、聖言における『唇』の意義から明白であり、そのことについてはまもなく述べよう。この節には、またこの僅かな言葉によって、古代教会の状態がそのあったままに記されているのである、すなわち、それは全般的には一つの教義を持っていたのである。しかし以下の節にはそれが如何ようにして誤謬化され、不善化され始めたかが記されており、その節から第九節にいたるまでは、如何ようにしてそれが全く歪められ、かくてもはや内なる礼拝を何ら持たなくなってしまったかに記されているのである。次に、さらに少しすすむと、取扱われている主題はエベルにより始められた第二の古代教会であり、最後にユダヤ教会の始まりである第三の古代教会がとり扱われている。

 

 

[2]第一の古代教会については、すなわち、それは地に広くひろがってはいたけれど、それでも唇と言葉は一つであった、すなわち、全般的にもまた個別的にも教義においては一つであったが、その礼拝は内なるものも外なるものも凡ゆる所で異なっていたということいついては、―そのことは前章に示されたところであって、そこではそこに名をあげられている各々の国民により異なった教義的なものと祭儀とが意味されたのであるが―実情は以下のようである。天界には無数の社会が存在しており、凡てが異なっているが、しかもそれらは一つのものである、なぜならそれらは凡て一つのものとして主により導かれているからである、そのことについては前に言われたことを参照されたい(457、551、684、685、690番)。この点では人間の場合と同一である、すなわち、人間には極めて多くの内臓があり、内臓の中には極めて多くの小さな内臓があり、器官があり、肢体があって、その各々は異なった方法をもって、活動はしているものの、その凡てはまたその各々は一つの霊魂により一つのものとして治められているのである、またはそれは身体の場合とも同一であり、身体の内ではいくたの力の活動と運動とは異なってはいるが、しかも凡てのものは心臓の一つの運動と肺臓の一つの運動により治められていて、一つのものとなっているのである。これらのものがこのように一つのものとして活動することができることは以下の事実から発している、すなわち、天界にはただ一つの流入のみが存在していて、その流入が各個人によりその者自身の資質に従って受け入れられており、その流入は主から主の慈悲から、また主の生命から発しているいくたの情愛の流入であり、ただ一つの流入しか存在しないにも拘らず、凡てのものは一つのものとしてそれに服従し、従っているのである。これは天界にいる者たちがその中にいる相互愛の結果である。

 

[3]第一古代教会の場合もこれと同一であったのである、なぜなら全般的には諸国民と同数の種類の礼拝があり―そのあるものは内なるものであり、またあるものは外なるものであったけれど―また特殊的には諸国民の中に存在した氏族と同数の礼拝があり、また個別的には教会の人間と同数の種類の礼拝があったけれども、しかもかれらは凡て一つの唇を持ち、言葉は一つであったのである、すなわち、かれらは凡て全般的にもまた個別的にも一つの教義を持っていたのである。教義は凡ての者が相互愛の中に、または仁慈の中にいるときは一つである。たとえそれらは多様ではあるものの、相互愛と仁慈により、それらはすべて一つのものとなるのである、なぜなら相互愛と仁慈とは多様なものから一つのものを作るからである。凡ての人間は、たとえ如何に数多くいようとも、巨万の数にさえたっしようとも、もし、仁慈の中に、すなわち相互愛の中にいるならば、一つの目的を、すなわち、共通の善を、主の王国を、主御自身を持っているのである。教義と礼拝における多様なものは、すでに言ったように、人間における感覚と内臓の多様なものに似ており、それらは全体の完全性に貢献しているのである。なぜならそのときは、主は仁慈を通し、各々の者の資質に応じて、多様な方法で流入したまい、また活動したまい、かくして全般的にもまた個別的にも、天界のみでなく地上の凡てのものを処理されて秩序づけられるからである。そしてそのとき、主御自身教えられているように、主の意志が天界に行われるように、地にもまた行われるのである。

 

 

 

天界の秘義1286

 

 『唇』が教義を意味することは聖言の以下の記事から明白である。イザヤ書には―

 

  天使たちは叫んで言った、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍のエホバと。するとその予言者は言った、禍いなるかな、わたしは汚れた唇の人間であり、汚れた唇の民の真中に住んでいるため、絶たれてしまった、わたしの目は万軍のエホバを、王を見まつったからである、と。そのときその天使たちの一人がわたしのもとへ飛んできて、わたしの口に触れて、言った、見よ、これがあなたの唇に触れた、それであなたの不法は取り去られ、あなたの罪はつぐなわれた(6・3、5−7)。

 

 ここの『唇』は、予言者のもとにここに表象されているように人間の内的なものを意味しており、かくて崇拝が生まれてくる源泉である内なる礼拝を意味している。かれの唇に触れたこと、かくてかれの不法は除かれ、かれの罪は償われたことは、仁慈とその教義にぞくした事柄である『唇』により意味されている内的なものを表象するものであったことは何人でも認めることができよう。

 

[2]更に―

 

  エホバはその御口の棒をもって地を打ち、その御唇の息をもって悪い者を殺されるであろう。(1・4)

 

 内意ではこれはエホバはその御口の棒をもって打ち、その御唇の息で邪悪な者を殺されることを意味してはいないで、邪悪な者がそのことを自分自身に行うことを示しており、『唇の息』は教義であって、それは邪悪な者のもとでは誤っているものである。更に―

 

  わたしは遥か遠くにいる者にも近くにいる者にも唇をふやし、平安を、平安を創造ろう、とエホバは言われる、わたしはかれをいやす(57・19)。

 

 『唇をふやすこと』は教義を意味している。

 

 

 

天界の秘義1321

 

 「そしてそこでかれらの唇を乱そう」。

これはたれ一人教義の真理を持っていないことを意味していることは、『唇』の意義から認めることができよう、それは教義であり、そのことについては前を参照されたい(一節)。ここから『唇を乱すこと』は教義にぞくした事柄を、すなわち、信仰の諸真理を乱すことであることが生まれてくる。内意では、乱すことはたんに暗くすることのみでなく、抹消し、消散させ、かくて如何ような真理も存在しないことを意味している。自己礼拝が主礼拝にとってかわると、そのときは真理はことごとく歪められるのみでなく、廃棄されさえもし、ついには誤謬が真理に代って、悪が善に代って承認されるのである。なぜなら真理の光はことごとく主からはっしており、暗黒はことごとく人間から発しており、そして人間が礼拝において主にとってかわると、真理の光は暗闇となり、その時は光は暗闇として、暗闇は光として人間から見られるのである。

 

[2]さらにこうしたものが正確にそうした人物の死後の生命であって、誤謬の光はかれらには恰もそれが光であるかのようになるが、しかし真理の光はかれらには暗闇のようになるのである。しかしかれらは天界に近づくとき、こうした生命の光は暗闇そのものに変化する。かれらは世にいる限り、実に真理を雄弁に、また熱意をうわべに見せてさえも語ることができ、そしてこうした人物は絶えず自己を反省しているため、かれらはかれら自身には自分が語っているように考えているように思われるのであるが、しかしかれらの目的そのものは自己礼拝であるため、かれらの思考はその目的から、かれらは真理をその真理の中に自己が存在しないかぎり承認はしないということを引き出しているのである。真理を口にした人間がこのような性質を持っているときは、その者は真理を持ってはいないことは明白であり、このことは他生には極めて明白である、なぜならそこではこうした人間は身体の生命の中で告白した真理を承認しないのみでなく、それを憎悪し、迫害もし、しかもそれはかれらの傲慢または自己礼拝が取り去られていないのに全く正比例しているからである。