車
天界の秘義5945
「エジプトの地から車をとり」。これは記憶知の教義的なものを意味していることは以下から明白である、すなわち、『エジプトの地』の意義は記憶知であり(そのことについては前を参照)、『車』の意義は教義的なものである。聖言には、エジプトが取り扱われている所には、ここかしこに戦車と馬のことが言われており、『戦車』により、時には誤った、時には真の教義的な事柄が意味され、『馬』により、同じく両方の意義における知的な事柄が意味されている。『戦車』は教義的なものであることは前に見ることができよう(5321番)。そこの『車』も同様であるが、しかし車によっては記憶知の教義的なものが意味されているのである。記憶知の教義的なものは聖言の文字の意義から来ている教義的なものであり、教会のさらに内的な諸真理へ始めて導き入れられつつある者たちには特に役立つものであって、それはやもめ、孤児、街の貧しい者らは慈悲の特別の対象であるというようなものであり、また十誡の教えである。こうしたものやまたさらに多くのものが記憶知の特別の対象であるというようなものであり、また十誡の教えである。こうしたものやまたさらに多くのものが記憶知の教義的なものであり、『エジプトの車』により意味されているのである。このような教義的なものは、人間の学ぶ最初のものであって、後には彼に最も外なる面として役立つのである。なぜならさらに内的なものへ進んで行くときは、それらは最も外なるものとなるからである。さらに天的なものと霊的なものとは実際これらのものの中に終結するのである。なぜならそれらのものはいわばこれらのものの上に立って、これらのものに依存しているからである。それは霊界はいわばその足とその足の裏を自然界においており、人間のもとではその霊的生命については、丁度聖言の内意がその足をその文字の意義の中においているように、記憶知の教義的なものの中においているためである。こうした教義的なものを意味している『車』は聖言には僅かな記事しか記されていない。原語では『車』は、箱がそうした運搬具の上におかれたと言われているところと(サムエル記前6・7、8、サムエル記後6・3)、また幕屋が清められたときに(民数記7・3)その言葉で記されているのである。その理由は、箱は天界を表象し(3478番)、天界は、前に言ったように、記憶知の教義的なものの上に立って、それに依存しているということである。
天界の秘義5950
『ヨセフはパロの口に従って、かれらに車を与え』は、内なるものから彼らは教義的なものを快適なものとして得たことを意味し、