天界の秘義1043

 

 『雲』は、霊的な人が天的な人に比較されたさい、その人がその中におかれている明確でない[うすぐらい]光を意味していることは『虹』について今し方言われたことから明白である。なぜなら虹は、または虹の色彩は雲の中でないかぎり、何処にも存在しないからである。前に言ったように、色彩に変化するものは、太陽の光線がさし通る雲の暗さ[暗い色]であり、かくて色彩は光線の輝きにより触れられる暗さ[暗いもの]に応じている。霊的な人間の場合も同一である。かれにあっては、ここに『雲』と呼ばれている暗さ[暗いもの]はその者の理解のその者自身のものと同一である誤謬である。主によりこの自分自身のものの中へ無垢、仁慈、慈悲が徐々に注ぎこまれると、そのときはこの雲はもはや誤謬としては現れないで、主から発した真理とともになって、真理の外観として現れるのである。ここから色彩をもった虹に似たものが発してくるのである。そこには一種の霊的な修正が行われるが、それは決して説明することの出来ないものであり、それが色彩とその起原により人間から認められない限り、どのようにしてそれを人間に理解できるように説明することができるかをわたしは知らないのである。

 

[2]再生した人間におけるこの『雲』の性質は再生以前のかれの状態から見ることができよう。人間はその者が信仰の諸真理であると考えるものを通して再生するのである。人間各々は自分の教義が真であると考え、そこから良心を得ており、そうした理由からかれが良心を得た後は、信仰の諸真理として、かれに印刻されたものに反して行動することはかれには良心に反したことになる。再生した人間はことごとくそうしたものである。なぜなら多くの者は主により凡ゆる教義の中に再生するのであって、かれらは再生すると、何ら直接的な啓示を受けないで、たんに聖言と聖言の宣教とを通してかれらに徐々に注ぎ込まれるもののみを受けるからである。しかしかれらは仁慈を受けるため、主は仁慈を通してかれらの雲の上に働きかけられ、そこから光が発生するのであって、それは太陽が雲にさしこむと、雲はそのときさらに明るくなって、多様な色彩を帯びるのに似ているのである。かくてまたその雲の中に虹に似たものが現れてくるのである。雲が稀薄であればある程、すなわち、それを構成しているところの信仰の諸真理の入りまじったものが多数であればあるほど、その虹は益々美しくなるのである。しかしその雲が濃厚であればあるほど、すなわち、それを構成している信仰の諸真理が少なければ少ないほど、その虹は益々美しくなくなるのである。無垢はその美を非常に増大させ、その色彩にいわば生きた光輝のようなものを与えている。

 

 

[3]真理の外観はことごとく雲であり、人間は聖言の文字の意義の中にいるときは、その中にいるのである。しかしかれが単純に聖言を信じ、仁慈を持っているときは、その者はたとえ外観の中に止まっているにしてもこの雲は比較的稀薄である。教会の内にいる人間のもとで、良心が主により形作られるのはこの雲の中である。真理の無知[真理を知らないこと]もまたことごとく雲であり、その雲の中に人間は信仰の真理の何であるかを知らないとき、おかれており、全般的には、聖言の何であるかを知らないとき、おかれており、まして主について聞いたことのない時はさらにその中におかれているのである。この雲の中に良心が教会の外にいる人間のもとにも主により形作られるのである。なぜならその者の無知そのものの中にさえも無垢が在り、かくて仁慈が在りうるからである。凡ゆる誤謬もまた雲である。しかしこれらの雲は暗黒であってそれは―他の所で記したところの―誤った良心を持った者たちか、何ら良心を持っていない者か、その何れかの者のもとに在るのである。これらが、全般的に、雲の性質である。その雲の大きさについては、もし人間がそれを知ったなら、光線が主からさし通すことができて、人間が再生することができるということを怪しむほどにも大きな、またあつい雲が人間のもとに在るのである。自分自身には雲はほとんどないと考えている者が時としては非常に大きな雲を持っており、自分には非常に多くの雲があると信じている者には雲が少ないのである。

 

 

[4]霊的な人間にはこのような雲が在るが、天的な人間にはそれ程大きい雲は存在していない、それはかれはその意志の部分の中に主に対する愛を植えつけられており、それでかれは主から霊的な人間が受けるような良心を受けないで、善の認識を受け、またそこから真理の認識を受けているためである。人間の意志の部分が天的な焔の熱線を受けることができるようなものである時、かれの理知的な部分はそれにより明るくされ、かくてかれは愛から信仰の諸真理である事柄をことごとく知り、認めるのである。かくてかれの意志の部分は小さな太陽に似ており、そこから熱線がかれの理知的な部分に輝き入るのである。かくのごときが最古代教会の人であった。しかし人間の意志の部分が全的に腐敗し、奈落的なものとなり、それゆえ良心である新しい意志がかれの理知的な部分に形成されたとき(古代教会の再生した人間各々の場合がそうであったが)その者の雲はあついのである。なぜならかれは善い、真のものを学ばなくてはならず、それがそうしたものであるか否かを何ら認識していないからである。その時はまた(雲の暗黒であるところ)誤謬が絶えずかれの黒い意志の部分から、すなわち、それを通して地獄から流れ入ってくるのである。これが霊的な人間の中では理知的な部分が、天的な人間の中に明るくされるようには決して明るくされることができない理由となっている。ここからここの『雲』は霊的な人間が天的な人に比較してその中に宿っている明確でない光を意味しているのである。

 

 

天界の秘義1044

 

「そしてそれはわたしと地との間の契約の印となるであろう」。これは主が現存されているしるしを意味し、ここの地は人間の人間自身のものを意味していることはすでに言われたことから明白である。『地』は人間の人間自身のものを意味していることはまた内意から明白であり、それがここに用いられている関連からも明白である。なぜなら前には以下のように言われたからである。『これはわたしがわたしとあなたとあなたとともにいる生きた凡ての魂との間に立てる契約の印である』。このことにより何であれ再生したものがことごとく意味されたのである。しかしここでは異なった風に言われている。すなわち、『それはわたしと地との間の契約の印となるであろう』。このことから、また『契約の印』という言葉がくり返されていることからも、ここには他の事柄が意味されており、事実『地』は人間の意志の部分の人間自身のものであるところの、再生しない、また再生することのできないものを意味していることが明らかである。

 

[2]なぜなら人間は再生した時はその知的な部分の方面では主のものであるが、しかしその意志の部分の方面では人間自身のものであって、霊的な人間の中ではこの二つの部分は対立しているからである。しかし人間の意志の部分は対立しているけれど、それでもそれは現存しないわけにはいかないのである。なぜならかれの理知的な部分における曖昧さはことごとく、またはかれの雲の濃厚さのことごとくはそこから発しているからである。それは絶えずそこから流れ入っており、そしてそれが流れ入って来るに応じて、かれの知的な部分の中の雲は厚くなるが、しかしそれが遠ざけられるに応じて、その雲は稀薄になるのである。かくて『地』によりここでは人間の人間自身のものが意味されている。(『地』により人間の形体的な部分が意味されまた他の多くの事柄も意味されていることは前に示しておいた。)

 

 

[3]意志と理解の間のこうした事柄の条件は最古代教会の人間における意志と理解のように、前には友情の契約により結合していた二人の者が―人間がその意志の部分を全く腐敗させてしまった時おこったように―その友情を破壊されてしまって敵意が起ってきたようなものであり、かくて契約が再び結ばれるとき、敵意を抱いた部分が契約がそれと結ばれるかのようにさし出されるが、しかしそれは全く対立して、相反したものであるため、契約はそれとは結ばれないで―既に言ったように―そこから流れ入って来るものと結ばれるようなものであり、すなわち理解の人間自身のものと結ばれるのである。契約の『象徴』または『印』は以下のようなものである。すなわち、理解の人間自身のものの中に主が現存されるに比例して意志の人間自身のものが遠ざけられるのである。この間の実情は天界と地獄との実情に性格に同一である。再生した人間の知的な部分は、主がその中に現存されている仁慈から、天界であり、かれの意志の部分は地獄である。主がこの天界の中に現存されているに応じ、それに比例してこの地獄は遠ざけられるのである。なぜなら人間は人間自身では地獄の中におり、主により、天界の中にいるからである。そして人間は絶えず地獄から天界へ挙げられつつあり、かれが挙げられるに応じて、それに正比例してかれの地獄は遠ざけられるのである。それゆえ主が現存されているという『印』は、またはそのことを指示するものは、人間の意志の部分が遠ざけられるということである。それが遠ざけられる可能性は試練により、また他の多くの再生の方法により行われるのである。

 

 

 

天界の秘義1047

 

 「そしてわたしが地の上に雲をもたらすとき」。これは人間の意志の部分の人間自身のもののために仁慈の信仰が現れない時を意味することは、今し方地について、または人間の意志の部分の人間自身のものについて言われたことから明白である。すなわちそれは人間の知的な部分の中へ、不明確なものを、または誤ったものを絶えず注ぎこむといった性質のものであり、その不明確なものが『一面に雲となってかげらすもの』であって、凡ゆる誤謬の源泉となっているのである。このことは自己を求める愛と世を求める愛が―それらは人間の意志に属したものであるが―憎悪以外の何ものでもないという事実から充分に明らかである。なぜならたれでも自分自身を愛するに応じて益々隣人を憎むからである。そしてこれらの愛は天界的な愛に極めて対立しているため、相互愛に反したものが必然的に絶えずそこから流入し、この凡てのものが知的な部分の中で誤謬となるからである。ここからその暗黒と明確でないもののすべてが発している。黒雲が太陽の光をくもらすように、誤謬は真理をくもらせる。そして誤謬と真理とは丁度暗黒と光のように、共になることができないため、その一方は他方が来ると去ってしまうことが明らかに生まれてくる。そしてこうしたことが交互に起ってくるため、それでここに『わたしが地の上に雲をもたらすとき』と言われているのである、すなわち意志の部分の人間自身のものを通して、仁慈の信仰が、または真理がそこから派生する善とともに現れず、まして善がそこから派生する真理とともに現れないとき、と言われているのである。

 

 

天界の秘義1048

 

「虹が雲の中に見られるであろう」。

 

これは、それでも人間は再生することができるようなものであるとき、を意味していることは『雲の中の虹』の意義から明白であって、それは前に言ったように、再生のしるしであり、または再生を指示するものである。『雲の中の虹』についてはその実相はさらに以下のようである。人間の性質は、または身体の死後の霊魂の性質は直ちに知られている、すなわちそれは主により永遠から知られており、またそれが永遠に如何ようなものになるかも知られている。かれの性質は天使たちによりかれが近づくその瞬間に知られている。或るスフィア[霊気]がかれの性質からまたはかれの中の凡ゆる物から―いわば―発散しており、このスフィアは、驚嘆すべきことには、そこからその人間が如何ような信仰にまた如何ような仁慈にいるかを認められることができるといったものである。主がよしとされるとき、虹として見られるのはこのスフィアである。(このスフィアについては、主の神的慈悲の下に今後述べよう)。ここから雲の中に見られるときの虹によりここに意味されていることが明白である。すなわち、人間が再生できるとき、が意味されているのである。

 

 

天界の秘義3221

 

 天使たちの談話は時々雲により、その形、色、動き、変化により表象されており、真理を肯定する事柄は輝いて上昇して行く雲により、それを否定する事柄は暗い下降して行く雲により、誤謬を肯定するものは薄暗い、また黒い雲により、同意と不同意とは雲の色々な集合と分離とにより表象されており、この後のものは夜の天の空のような空の中で表象されている。