くじけない
黙示録講解103
「くじけはしなかった」は、為し得る限り、を意味している。このことは『くじけないこと』の意義から明白であり、そのことが真理と善とにかかわるいくたの知識を熱烈に求めている者たちについて言われているときは、なし得る限り、である、なぜなら今以下に記されている事の中には、これらの知識に従った生命[生活]がとり扱われているからである。この知識に従った生命の中にいる者たちは前進して、くじけはしないが、しかし未だ知識の中にのみいる者らは、為し得る限り前進はするものの、活力が発生する生命の光を得てはいないのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・5・5
愛は用心し、眠っている間でさえ眠らない。
疲れても弱らず、圧迫されてもひるまず、おどされてもうろたえず、烈々炎のように、炎々炬火(たいまつ)にょうに、天に向って燃え上がり、何事もなく万難(すべて)を突破して行くのである。
愛する者はだれでもこの声の叫びを知る。
その魂の熱烈な愛は、「私の神よ、私の愛よ、主はまったく私のもの、私はまったく主のもの。」という神のおん耳に達する高い叫びなのである。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/109
マリアへのまことの信心の第四の特長は、それが不動だということです。それは人を、善の中に強化し固定し、信心業をかんたんに放棄しない方向へともって行きます。まことの信心は人を、世間に対して、世間のムードとコトワザに対して、勇敢にします。肉に対しても、肉の倦怠と挑戦に対しても、勇敢にします。悪魔とその誘惑にも、勇敢にします。そんな訳で、アリアへのまことの信心をもっている人は、人生の順境においても逆境においても、不変不動です。グチもこぼさねば、泣きもせず、恐れもしません。ときたま、信心の甘美に酔いしれて、失敗をしでかさないともかぎりません。だが、失敗しても、倒れても、御母マリアに手をさしのべて、すぐに立ちあがります。信心が無味乾燥になっても、ちっとも心配しません。マリアの忠実なしもべは、イエズスとマリアへの“信仰に生きる”(ヘブル10・38)のであって、けっしてからだの感覚にささえられて生きるのではないからです。