言葉・言語

 

 

 

天界の秘義1288

 

「かれらの言葉は一つであった」(創世記11・1)。

 

これは個別的にも一つの教義があったことを意味していることは前に言われたことから明白である。なぜなら『唇』は、前に示されたように、教義を全般的に意味し、『言葉』は教義を個別的に意味し、または教義の個々のものを意味しているからである。なぜなら個々のものは何物にも勝って主を愛し、自分のように隣人を愛するという一つの目的を目指しさえするなら、それは何ら一致しないものを生み出さないからである、なぜならそのときは個々のものはこれらの全般的なものの個々のもの[個別的なもの]であるからである。

 

[2]『言葉』が仁慈にかかわる凡ゆる教義とそこから派生してくる信仰とを意味し、『いくたの言葉』が教義に属した事柄を意味していることは、ダビデの書に明白である―

 

 わたしはあなたの義の審判を学ぶとき、心を直くしてあなたに向かって告白しましょう、わたしはあなたの法令を守りましょう。なにをもって子供はその道を清くしましょうか。あなたの御言葉に従って心をくばることによります。わたしはわたしの心をつくしてあなたを求めました、あなたの教えからさまよわせないでください。わたしはあなたに向かって罪を犯さないように、あなたの御言葉を心の中に秘めました。ああ、エホバよ、あなたは祝福されたまう。わたしにあなたの法令を教えたまえ。わたしはわたしの唇をもってあなたの御口の審判をことごとくくりかえしました。わたしはあなたの証の道にいて楽しみました。わたしはあなたの戒めの中で思いをめぐらし、あなたの道を仰ぎます。わたしはあなたの法令を喜びます。わたしはあなたの御言葉を忘れません(詩篇119・7−16)。

 

 ここの『言葉』は教義を全般的に意味している。ここには『教え』と『審判』と『証』と『戒め』と『法令』と『道』と『唇』とが区別されていて、この凡てが聖言にまたは教義にぞくしていることが明白である。聖言では他の凡ての所でもそれらは同一の明確に区別された事柄を意味している。

 

[3]さらに―

 愛の歌。わたしの心は善い言葉を欲した、わたしの舌は速やかに物を書く人のペンである。あなたは人の子らにまさってうるわしく、あなたの唇の上には恩寵[恵み]が注がれている。真理の言葉の上に、義しい優しい言葉の上に乗りたまえ、あなたの右手はあなたに驚くべき事を教えるでしょう(詩篇45・1,2,4)。

 

『真理の言葉の上に、義しい優しい言葉の上に乗ること』は真理と善との教義を教えることである。ここにも、聖言の他の所のように、『言葉』と『唇』と『舌』という語は明確に区別ある事柄を意味しており、それらが仁慈に関わる教義の事柄であることは明白である、なぜならそれが『愛の歌』と呼ばれているからである。この教義について人の子らに勝った恵みと驚くべき事柄を教える右手が述べられているのである。

 

[4]イザヤ書には―

エホバはヤコブに言葉をつかわされた、それはイスラエルに止まった(9・8)。

 

『言葉』は内なる礼拝と外なる礼拝との教義を意味し、ここの『ヤコブ』は外なる礼拝を、『イスラエル』は内なる礼拝を意味している。

マタイ伝には―

 イエスは言われた、人間はパンのみによって生きはしない、神の御口から出る凡ての言葉によって生きる(4・4)。

 

さらに―

たれでも王国の言葉を聞いて、それに心をとめない時は、悪い者が来て、その心にまかれたものを奪い去ってしまう(13・19)。

 

また同章の20節から23節までに記された『言葉』を参照されたい。さらに―

 

天と地は過ぎ去るであろう、しかしわたしのいくたの言葉は過ぎ去りはしない(24・35)。

 

これらの記事では『言葉』は主の教義を意味し『いくたの言葉』は主の教義にぞくした事柄を意味している。

 

[3]『いくたの言葉』は教義の凡ゆる事柄を意味しているため、モーセの書には、十戒の戒めは『いくたの言葉』と呼ばれた―

 

エホバは板石の上に契約のいくたの言葉を、十の言葉を書かれた(出エジプト34・28)。

 

さらに―

かれはその契約をあなたらに布れられ、それらを、すなわち十の言葉を行うようにあなたらに命じられた、かれはそれらを二板の板石の上に書かれた(申命記4・13、10・4)。

 

さらに―

自分自身に心をくばり、あなたの魂を勤勉に守りなさい、あなたがあなたの目でながめたいくたの言葉を忘れないためである(4・9)。

 

その他。

 

 

天界の秘義1634−1649

 

霊と天使との言葉について

 

 

天界の秘義1637

 

霊魂たちはすべて、他生に入ると直ぐに、全世界にいる凡ての者の言語を、恰もそれが自分たちの母国語であるかのように正確に理解することができる賜物を与えられるのである、なぜならかれらは何なりと人間が考えることを認めるからである。かれらはまたさらにすぐれた他の能力を与えられる。ここから、霊魂たちは、身体の死後、凡ての者たちと、かれらがいかような地域のものであったにしても、またいかような言語を話していたにしても、語り合いまた交わることもできるのである。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P227

‘90・9・10

 

もう比喩では話していない、彼らが私に属さない 私のでない称号をあてがっていると 普通の言葉で言う。 偽キリスト、いのちない象り、偽りの神: これらが偽りのエキュメニズムの蔭に巧妙に隠されている・・・しかし最後には打ち勝つと 我が子よ、私は約束する。 あなたの時代のこれら偽りの教師たちを倒す そしてあらゆる神秘 奇跡と不思議を伴う、我が聖心の隠された宝をあなたに与え 舌には愛という我が十字架の言語を乗せよう!それから我が羊飼いたちには「指導力と奉仕」という言葉を思い出させる、貧しい人びとに威圧感を与える大物のようであってはならないと命じよう。 いや。 私が地上に来たのが仕えられるためではなく仕えるためで、多くの人びとの身代わりとして いのちを与えるためだったように、誰でも貧しい人びとの間で大きくなりたい人は 彼らに仕えなければならない、そして彼らの間で第一となりたい人は 最も小さな者とならなければならない。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P248

‘90・10・10

 

聞きなさい、まこと愛する人びとよ。 聖書に書かれてある: 「十字架の教えは、滅びてしまう者にとっては馬鹿らしいことですが、救いの道を歩いている私どもにとっては神の力です(*)」私が教えに訪れたのはこの言語です、我が学舎で耳にするのは この愛の言語です、そしてあなた方、喜んで学ぼうとするあなた方は、祝福を受け、強く 幸せでいなさい。妨害はきっとやって来ようが、怖れないで、私に頼っていなさい。 しかしそれを置く者たちは災いです、裁きの日には私に答えなければならなくなろう!

 *1コリント書1・18