言葉の調子
天界の秘義1640[3]
かれらの言葉の観念が閉じられているか、または開かれているか、また何がかれら自身から、何が他の者から、何が主から来ているかもまた認められている。このことは人間の顔つきの場合と全く同一である、なぜならその顔つきからは、たとえ一言も言われなくても、佯りがあるか、または欺きがあるか、または楽しさがあるか、または自然的な、それともつくろった喜びがあるか、心からの友情があるか、つつましさがあるか、または狂気があるか、否かが、屡々知られるからであり、ときにはまたそうしたものがその人間の言葉の調子からも明らかになっているのである。
霊界日記6110(54)
かれらは、愛から考えるとき・・・・単に手を、唇を触れるのみでいくたの歓喜と快楽とを享受する。かれらはその触れている、また共になっている状態を精妙に知覚する。こうしたことは情愛と思考との歓喜から、そうしたものの連結の歓喜から生まれており、その知覚はその連結が内的なものとなっているに応じて益々精妙なものとなっている。男性と女性との連結からこうした歓喜が在ることは善と真理との連結からそうしたものが存在するためである。外なる感覚、例えば、視覚の、聴覚の、臭覚の、とくに呼吸の連結には、さらに多くの歓喜が存在しており、その中には無数のものが隠れており、それらはとくに言葉の音声そのものの中に隠れているのである。