殺す

 

1.聖書

2.善が受け入れられないこと

3.憎悪を抱くこと

4.真理から自己由来の生命を剥奪すること

5.霊的な生命を取り去ること

 

 

2.善が受け入れられないこと

 

天界の秘義3387

 

『わたしを殺すこと』の意義は善が受け入れなれないことである、なぜならここでは『わたし』であるイサクにより主の合理的な善[神の善]が表象されているからである(3012、3194、3210番)、なぜなら善はそれが受け入れられないときは、殺される、または死滅する、と言われるからであり、それは善を受け入れない者のもおとでは、善は無視されてしまうためである。

 

 

天界の秘義3488[2]

 

かくて彼らはあなたたちを患難にわたし、あなたたちを殺すであろう。

 

 これは善と真理とが、先ず『患難』により、すなわち、歪曲[歪められること]により死滅し、後には彼らが彼らを『殺すこと』により、すなわち、否定することにより死滅するであろうということを意味している。『殺す』ことは、それが善と真理とについて述べられているときは、受け入れないことであり、かくて否定することであることは、前の3387、3395番に見ることができよう)。『あなたたち』により、すなわち、使徒たちにより信仰の凡ゆる事柄の一つの総合体が意味され、かくてその真理のみでなくその善が意味されている。

 

 

3.憎悪を抱くこと

 

天界の秘義3440

 

殺すことは憎悪を抱くことである、なぜなら憎む人間は殺すことがかれの意志とかれの生命の歓喜の中に在るため絶えず[各瞬間]殺しているからである

 

 

天界の秘義3488[2]

 

かくて彼らはあなたたちを患難にわたし、あなたたちを殺すであろう。

 

 これは善と真理とが、先ず『患難』により、すなわち、歪曲[歪められること]により死滅し、後には彼らが彼らを『殺すこと』により、すなわち、否定することにより死滅するであろうということを意味している。『殺す』ことは、それが善と真理とについて述べられているときは、受け入れないことであり、かくて否定することであることは、前の3387、3395番に見ることができよう)。『あなたたち』により、すなわち、使徒たちにより信仰の凡ゆる事柄の一つの総合体が意味され、かくてその真理のみでなくその善が意味されている。

 

 

4.真理から自己由来の生命を剥奪すること

 

天界の秘義3607

 

「わたしの父のために嘆く日が[わたしの父の喪の日が]近づいている、わたしは弟のヤコブを殺そう」。これは状態の逆転と真理から自己由来の生命を剥奪することを意味していることは、以下から明白である、すなわち、『喪の日』の意義は状態の逆転であり、『弟ヤコブを殺すこと』の意義は真理から自己由来の生命を剥奪することである。

 

 

天界の秘義3607[2]

 

 このことから、内意では『弟ヤコブを殺すこと』は殺すことではなく、真理に調和していないかの生命を剥奪することであることが明白である、なぜなら真理はたんに善を受容する器官であるにすぎないからには、真理はそれ自身では生命を持ってはいないで、善からそれを持っているからである(1496、1832、1900、2063、2261、2269、2697、3049、3068、3128、3146、3318、3387番を参照)、善の中には生命が存在しているが、しかし真理の中には、善から発している真理をのぞいては生命は存在していないのである(1589番を参照、また他の所に再三このことが述べられている)。それで真理から自己由来の生命を剥奪することは真理を消滅させることではなくて、それを生かすことである、なぜなら真理がそれ自身から生命を持っているようにそれ自身に見えると、そのときはそれはそれ自身では生命ではない生命以外には何らの生命を持たないが、しかしそれがそれを奪われると、そのときはそれは真の生命を、すなわち、生命そのものであられる主から善を通して与えられるからである。

 

 

天界の秘義3607[2]

 

 このことは他生にいる者たちから明らかである。真理のみの中にいる者たちにあっては観念は閉じられているように見え、そのため天界にぞくしているものは、その流入が天界から発していることが殆ど知られないほどにも全般的な方法によってのみ流入することを除いては流入することができないに反し、真理の中にいると同時に善の中にいる者たちのもとでは、その観念は開かれているように流入するのである、なぜならそれはその中に在る善により真理を通して流入するからである(1869、2425番を参照)。真理が善が先在的な位置に立ち、または主権をもちはじめるとき自己由来の生命を剥奪されることは、最初は真理が外観的に先在していることについて、その後善が先在することについて言われもし、示されもしたことから認めることができよう、真理が自己由来の生命を剥奪されるこのことがここに意味されていることである。こうした事柄が『父のために嘆くこと』により意味されている理由は、嘆く日が状態の逆転を意味しているということであり、その状態の逆転は前にイサクが震えたその非常に激しい震えにより意味されたのであり(33節、3593番)、また、エソウの叫んだその大きな激しい痛々しい叫び声によっても意味されたのである(34節、3597番)。

 

 

天界の秘義3610

 

『あなたを』すなわちヤコブを『殺すこと』の意義は真理から自己由来の生命を剥奪することである、(そのことについては、すぐ前の3607番を参照されたい、そこには真理から生命を剥奪することはそれを消滅させることではなく、それを生かすことであることが示されているのである)。なぜなら真理の生命にかかわる実情は以下のごとくであるからである、すなわち、真理の中にまたは真理に対する情愛の中にいる者たちがその知っているところの、またその感動しているところの真理に従って生きないと、そのときは自己への愛または世への愛から派生している多少の快楽と歓喜とが在り、それがそれ自身を真理に対する情愛に接合させていて、善のように見えるが、それでもそれは以下の用の方面を除いては善ではないのである、すなわちそのようにして真理が導入されもし、学ばれもして、後にはそれが真の善とその生命とに役立つことができるのである。真理がこうした状態に在る時、すなわち、真理に対する情愛の中にいる者たちがこの状態にいると、そのときは真理は自己由来の生命を持っていると言われるが、この生命は生命ではないのであり、そのことは以下の事実から明白である、すなわち、自己への愛と世への愛の中には、またはそれらの快楽と歓喜の中には生命はなく、天的な霊的な愛の中に、その快楽と歓喜の中に生命が在るのである。それで真理が、すなわち、このような真理の情愛の中にいる者たちがその生命を奪われると、そのときかれらは始めて生命を受け、またはそのとき始めて生かされもするのである。

 

 

天界の秘義3610[2]

 

 これらの事柄は自己と世への情愛の中にいる者らによっては到底把握されることはできない、なぜならかれらはそれ以外のいかような生命も在り得ないと信じており、従ってもし自分たちがかりにもその生命を奪われるなら、自分たちは全く生きることはできはしないと信じているからである。なぜならその生命の中にいる者は霊的な天的な生命はいかようなものであるかを到底知ることはできないからである。それでも事実は、かれらが自己と世への情愛の生命を剥奪されると、そのとき天使的な天界的な生命のような生命が、表現を絶した知恵と幸福とともに主から流れ入ってくるのであり、この生命から前の生命が観察されると、それはその中には自分たちが考えたり話したりすることができ、かくて外なる形では他の者にように見えることができるということを除いては、その中には神的なものは何一つないほどにも生命でないものとして、または獣の不潔な生命として見えるのである。

 

 

5.霊的な生命を取り去ること

 

天界の秘義6767

 

そのこともまた彼を『殺すこと』である、なぜなら信仰を取り去る者は霊的な生命を取り去ってしまい、後に残る生命は『死』と呼ばれるものとなるからである。

 

 

天界の秘義6767〔2〕