告白

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇50・14

 

告白を神へのいけにえとしてささげ

いと高き神に満願の献げ物をせよ。

 

 

 

詩篇50・23

 

告白をいけにえとしてささげる人は

わたしを栄光に輝かすであろう。

道を正す人に

わたしは神の救いを示そう。

 

 

 

詩篇89・6

 

主よ、天があなたの驚くべき力を告白し

聖なるものがその集会で

あなたのまことを告白しますように。

 

 

ローマ10・9−10

 

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義654

 

このことは現今諸教会に知られていることに、すなわち、信仰は聞くことによって生まれるということと一致している。しかし信仰は信仰に属したいくたの事柄を、または信じなくてはならないいくたの事柄を知ることでは決してない。それは単なる記憶にすぎないが、信仰は承認である。しかしながら信仰の第一義的なものが人間の中に存在していないかぎり、何人のもとにも承認は存在していないのであって、信仰の第一義的なものとは仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛と慈悲である。仁慈が存在しているとき、その時承認または信仰も存在している。そのように把握していない者は地が天から離れているようにも遥かに信仰の知識からは離れているのである。信仰の善である仁慈が現存しているとき、信仰の真理である承認も現存しているのである。それゆえ人間が知識、理性、理解のいくたの事柄に応じて再生されつつあるときは、それは土地が―すなわちかれの心が―仁慈を受ける備えをなすためであって、後には仁慈から、または仁慈の生命から、かれは考え、行動するのである。その時かれは改良され、または再生するのであって、その前ではない。

 

 

 

天界の秘義1422[2]

 

古代人の間では、『エホバを、または主を祝福する[ほめたたえる]』は聖言から明らかなように、一つの定まった形式の言葉であったのである。かくてダビデの書には―

 

  もろもろの集会の中で神を、イスラエルの基礎から主をほめたたえよ[祝福せよ](詩篇68・26)。

 

 さらに―

 

  エホバにむかって歌え、その御名をたたえよ[祝福せよ]、その御救いを日々のべつたえよ(詩篇96・2)。

 

 ダニエル書には―

 

  そのときその秘密は夜の幻の中に明らかにされた、それでダニエルは諸天の神をほめたたえて[祝福して]、言った、神御自身の御名は永遠にほめたたえられよ[祝福されよ]、知恵と力とは神のものであるからである(2・19、20)。

 

 ザカリアとシメオンについてもまたかれらが『神をたたえた[祝福した]』と記されているのである(ルカ1・64、2・28)。ここに『主をたたえること[主を祝福すること]』は主に向って歌うことであり、主の救いの良い音づれをのべつたえることであり、主の知恵と力とを説くことであり、かくて心から主を告白し、承認することであることが明白である。このことを行う者たちは主から祝福されないわけにはいかないのであり、すなわち、祝福にぞくしたものを、すなわち天的な、霊的な、自然的な、世的な、形体的な善を与えられないわけにはいかないのであり、これらのものが、こうした順序[秩序]をもって互に他のものに続いている時は、それらは内に幸福を宿した善である。

 

 

 

天界の秘義2329

 

「かれは言った、ねがわくは見てください、わたしの主たちよ」(創世記19・2)。これは主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを内的に承認し、告白することを意味していることは、今し方前に述べたばかり承認と卑下から明白であり、ここでは告白がすぐその後に続いている、なぜならそれは『ねがわくは見てください、わたしの主たちよ』というロトの言葉により意味されているからである。内的な告白は心情のものであって、卑下の中に、また同時に善の情愛の中に現れてくるが、しかし外的な告白は唇のものであって、恐らく偽装した[似て非なる]卑下と偽装した善の情愛の中に現れてくることができるのであり、それは主を自分自身の名誉のために、またはむしろ自分自身の利得のために告白する者らのもとに存在しているようなものであって、全く無きに等しいものである。これらの者は唇で告白するものを心では否定しているのである。

 

 

 

天界の秘義2724 []

 

しかし愛と信仰もないのに、ただ名を拝しているに過ぎない者は、マタイ伝に以下のように語られている―

 

その日多くの者はわたしに言うでしょう。主よ、主よ、私たちはあなたの御名により予言しませんでしたか、あなたの御名により、魔鬼を追い出しませんでしたか、あなたの御名の中に多くの力ある業を為しませんでしたか、と。しかしわたしは彼らに明らかに言いましょう。わたしはあなたたちを知らない。不法を働く者らよ、わたしから去りなさい、と(マタイ7・22.23)。

 

 

 

天界の秘義3880

 

「彼女は言った、こんどはわたしはエホバを告白しよう」(創世記29・34)。これはその最高の意義では主を、内意では聖言を、外意ではそこから発している教義を、現在の場合では愛の神的なものと主の天的な王国とを意味していることは、『告白すること』の意義から明白である。外なる、またはそれに最も近い内的な意義では告白することは聖言から発している教義を意味していることは明らかである、なぜなら告白は、普通の言葉においてすら、人間が主の前に自分の信仰を言明すること以外の何ものでもなく、かくてそれはその中にその人間が信じていることをことごとく包含しており、従って何であれかれにとり教義であるものをことごとく包含しているのである。内意では『告白すること』は聖言を意味していることはそのことから生まれている、なぜなら信仰と仁慈との教義はすべて聖言から発しなくてはならないからである、なぜなら人間は人間自身からでは天的なものと霊的なものを何一つ知ってはおらず、それでかれは聖言である神の啓示からのみそれらを知ることができるからである。

 

 

 

天界の秘義3880[4]

 

真理から発している告白は歌う声、楽しみ、讃美を歌う者の声と呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義3880[7]

 

心の真の告白は天的な愛から発しており、純粋な意義における告白である。この告白の中にいる人間は善はことごとく主から発しており、悪はことごとく自分自身から発していることを承認するのであり、かれがこうした告白の中にいるときは、卑下[謙虚]の状態の中にいるのである、なぜならそのときかれは主がかれの中の凡ゆるものであられ、自分自身はそれに対照すると無であることを承認するからであり、告白がこうした状態からなされると、それは天的な愛から為されるのである。

 

 

 

天界の秘義3994

 

 善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。

無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、すなわち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じるとき、主は善と真理とをもって流れ入られて、かれの中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々にひそかに)注ぎ入れられるのである。たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることはできない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりそのとき主の神的なものを受け入れることができる状態の中にいるからである。主がへり下った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。

 

 

 

天界の秘義4724

 

このことをまた信仰のみのためにたたかって、信仰の生活を送っていない者らはその者ら自身の中に消滅させていまうのである。なぜならかれらは主の人間的なものは純粋に人間的なものであって、他の人間の人間的なもの[人間性]に似ていなくはないと信じており、そこからかれらの多くの者はいかほど主をその唇で告白しても、主の神的なものを否定しているからである。しかし、ひざまづいて、けんそんな心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖さんにおいてもまたそのように考えはしないのである。ここからかれらのもとでは主の神的な人間的なものがかれらの心の中に在ることが明らかである。

 

 

 

天界の秘義7857

 

なぜなら主の栄化と諸善を享受することによる喜びとは、凡ての告白のように、信仰にぞくした真理に対する情愛から発出しているからである。

 

 

 

仁慈の教義206

 

「人はたれでも罪の何であるかを認知し、知るに応じて、それを自分自身の中に認め、主の前にそれを告白し、それを悔改めることができるのである。」

 

このことは今言ったことから生まれてくるのである。それゆえ人間は罪とは何であるかを知るために、聖言の最初のものは十戒であったのであり、それゆえまた十戒は聖言全体の統合体であり、そうした理由からそれは『十の聖言(ことば)』と呼ばれており、『十の聖言』により凡ゆる真理の統合体が意味されているのである。同じような理由から宗教をもっている世界の凡ゆる国民の間にも類似した教えが在るのである。そしてそれらが神の律法であり、それでそれらに反して行動する者は神に反して行動するのであり、または罪を犯すのであることを知っている人間は、神的流入[流入してくる神的なもの]を受け入れると同時にまた、自分自身から罪を犯すことをつつしみ、罪を悔改めるものとして罪を犯すことをつつしみ、罪を悔改める意志と努力を受け入れることができるのである。主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることができるのである。そのとき主はその業を成就されるが、それでも人間に恰も人間自身で行動するように行動させられるのである。もしそうでないと人間は行動することはできないのである。主はそのとき人間の中に、その最も内なるものからその最も外なるものにすら至るまでも働かれて、罪の根元である欲念を遠ざけられるのである。

 

 

 

仁慈の教義203

 

神を信じない者は悪を罪として認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担するのである。しかし神を信じる者は、また、その者自身の中に、神を通してわたしはそれを征服しよう、とも言うのである。そしてかれは懇願して、征服するのである。

 

 

 

神の摂理278

 

凡ゆる罪を犯しているという告白は凡ゆるものに対する無感覚を意味し、ついには凡てのものに盲目とならせるからである。それは個を持たぬ普遍のようなものであって、無意味なものである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P58

 

新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質についてしらべられるのである。なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々としたことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P41

‘88・9・29

 

主よ?

 

私です、覚えておくように、あなたの周りは荒れ野です。 ヴァッスーラ、悔い改め 私に罪を告白しなさい、耳を傾けている(*)、すっかり赦す、霊魂の染みとなっていた あなたの罪を赦す、平安でいなさい、今しがたのことを 全ての被造物に強く伝えたい。 私は皆に掟を与えた、皆はこの掟を守るように、私は我が教会に仕える教師たちを与え、道を案内させ 聖体拝領で私を受けることが いかに大切かを教えさせている。 我が血と我がからだを 受けなさい。 私は意味なく川のように 血を流したのではない、あなたに飲ませようと それは流された。 私に仕えるこの者たちは 我が血をあなたから遠ざけてはならない、我が血は あなたの救いのために流された、我が血も飲むように、さあ 来て飲みなさい もっとほしいと望むようになる。 私の最後の晩餐の言葉を守るように、そして私のもとに来る時は、その前に、私をどう受けるかに注意し、自らを調べ、気を落ちつかせ、悔い改めて しばしば告解し 私を尊びなさい。 あなた方に聴罪師を与えた、愛する者よ、彼に告解していても 私に告解しているにすぎない、あなたが告解している相手は私です。 契約の血を 聖でないかのように扱ってはならない ♡♡ 我が聖なる現存を忘れないでほしい、「私たち」、

 

はい「私たち」

 *神に告白しました。

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・7巻P131

‘94・6・24

 

罪を告白するのを恥とは思わないように、私は赦すのを喜びとしている。 あなたに無限の愛をいだくがゆえ その弱さに対しては 甘いことを示そう。