口授

1.スウェーデンボルグ

2.ヴァッスーラ

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義2515

 

「彼に言われた」(創世記20・3)。

 

これはそこから発した、すなわち、認識から発した思考を意味していることは、『言うこと』の意義から明白であって、それは認識することであり、また(2506番に示されたように)考えることである。認識から発した思考があったとここに言われているため、思考はいかようになっているかを簡単に述べた方がよいであろう。認識から発している思考があり、良心から発している思考があり、何ら良心がない状態から発している思考がある。認識から発している思考は天的な者たちのもとにのみ、すなわち、主に対する愛の中にいる者たちのもとにのみ存在しており、こうした思考は人間のもとに存在している最も内なるものであり、それは天界における天的な天使たちのもとに存在している。なぜならそれは主から発している認識であって、それによりまたそこから彼らの思考は存在しており、認識に反して考えることは不可能となっているからである。良心から発した思考はそれよりは低いものであって、霊的な者たちのもとに、すなわち、生命[生活]と教義との方面で仁慈と信仰との善の中にいる者たちのもとに存在している。さらにこれらの人々にとっても良心に反して考えることは不可能となっている、なぜならそれは彼らに良心を通して主から口授される善と真理とに反抗して考えることになるからである。

 

 

天界の秘義2515[2]

 

しかし何ら良心をもたない状態から発した思考は自分自身が善い真のものにより内的に導かれることに甘んじないで、単に悪い誤ったもののみによって、すなわち、主によらないで、自分自身によって導かれることに甘んじている者のもとに存在している。こうした人物は自分は良心と認識から考えている者たちと全く同じように内的に考えていると信じてはいるが、それは彼らは良心とは何であるかを知ってはおらず、ましてや認識とは何であるかを知ってはいないという理由によっているが、しかしその相違は地獄と天界との相違のようにも大きなものである。良心無しに考える者は何であれ何らかの欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えており、それがそのように見えない時は、それは名声を得るための外なる体裁から考えているのである。しかし良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えているのである。しかし主の思考については、それは人間の理解をことごとく超絶していたのである、なぜならそれは神的なものから直接発していたからである。

 

 

天界の秘義6597

 

しかし内意はこれまで明らかにしたようなものであることはこれまで述べてきた凡ゆる細々としたことから明白であり、とくにそれが天界からわたしに口授されたものであるという事実から明白である。

 

 

天界の秘義7055〔3〕

 

 他の例として聖言が書かれる媒介者となった予言者たちを考えられたい。彼らは神的なものから遣わされた霊が口授するままに書いたのである、なぜなら彼らの記した言葉そのものは彼らの耳元で語られたからである。彼らのもとには神的なものから、即ち、天界を通して間接に発出している真理はあったが、しかしそうした理由から、神的なものから直接に発出している真理は無かったのである、なぜなら彼らはその細々とした事柄の凡てがその内意に意味していることを何ら認識しなかったからである。

 

 

啓示による黙示録解説36

 

ヨハネも同じであった。(中略)ヨハネはこれらの物を『霊の中に』、『幻の中に』見たことをかれ自身が言っており(黙示録1・10、4・2、9・17、21・10)このこともまた『わたしは見た』により、その言葉が言われている所ではつねに意味されているのである。これらの事柄から『霊の中に』いることは『幻の中に』いることであることが明白であって、そのことは人間の霊の視覚が開くことにより行われるのであり、それが開かれると、霊界に存在する物は自然界に存在する物が身体の目の前に現れると同じ明白さをもって現れるのである。わたしはそれがそうであることを多年の経験から証することができる。弟子たちが主をその復活の後に眺めたときも、かれらはその状態にいたのである。それで『かれらの目が開かれた』と言われている(ルカ24・30、31)。アブラハムも、かれが三人の天使たちを見て、これと話したときも同じ状態にいたのである。ハガルや、ギデオンや、ヨシュアや、その他の者たちがエホバの天使たちを見たときもそうだったのであり、同じくエリシャの若者が山が戦車と火の馬とで満ちてエリシャをとり巻いているのを見たときもそうだったのである。なぜなら―

 

 エリシャは祈って、言った、エホバよ、ねがわくは、かれの目を開いて、見させてください、と。するとエホバはその若者の目を開かれた、かれは見た(列王記下6・17)。

 

しかし聖言については、それは霊の状態の中では、または幻の中には啓示されなかったのであり、予言者たちに主により生きた声で口授されたのである、それでかれらはそれを聖霊から話したとは何処にも言われておらず、エホバから話したと言われている。「主にかかわる新しいエルサレムの教義」(53番)を参照。

 

 

天界と地獄254

 

私は聖言が与えられる手段となった予言者たちと主はいかように話されたかを教えられた。主は彼らとは、古代人と話されたように、その内部へ流入されることによって話されたのではなく、彼らのもとへ遣わされた霊たちを通して話されたのである、すなわち、主はその霊たちを御自身の視線(ルック)で満たされ、かくして言葉を吹き込まれ(インスパイア)、その言葉をその霊たちは予言者たちに口授したのであり、それでそれは流入ではなく、口授であったのである。そしてその言葉は主から直接来ているため、その各語は神的なものに満たされていて、内意を含んでおり、その内意は、天界の天使たちはその言葉を天界的な霊的な意義をもって認めるが、人間はそれを自然的な意義をもって認めるようなものとなっており、かくして主は聖言により天界と世とを連結されたのである。霊たちはいかようにして主からその視線により神的なもので満たされるかはすでに示したところである。主から神的なもので、満たされた霊は自分が主であり、話しているものは神的なもの[神]であるとしか考えず、これはその霊が語り終えるまでも続くのであって、後になって彼は自分は霊であって、自分自身から語ったのではなく、主から語ったことを認めるのである。予言者たちと語った霊たちの状態はこのようなものであったため、彼らによりまた、エホバが語られたと言われている、すなわち、霊たちはまた自分自身をエホバとも呼んだことは、聖言の予言の部分からも、歴史の部分からも明白である。

 

 

天界と地獄259

 

 天界に文書が在ることは聖言のために主により定められたのである、なぜなら聖言はその本質では神的真理であり、そこから人間と天使における天界的知恵の一切が発しているからである、それは聖言は主から口授され、主から口授されたものは秩序正しく諸天界を経て、人間のもとで終結しているためである。かくて、それは天使たちの持っている知恵にも、人間の持っている理知にも適応している。そこから天使たちもまた聖言を持っていて、地上の人間と同じようにそれを読んでおり、そこからまた天使たちの教義的なものが生まれ、そこから彼らは教を宣べている(221)。聖言は同一である。しかしながら我々の文字の意義であるその自然的な意義は天界にはなくて、その内意である霊的意義がある。その意義の何であるかは、黙示録に語られている白馬を取扱った小さな論文に見ることができよう。

 

 

 

霊界日記6062

 

ツィンツェンドルフは抽象的な観念の中にいたが〔抽象的に考えていたが〕、それは彼がたれかに話しかけているようではなくて、自分自身の中で考えているか、または何一つ他に洩らしはしない友と話しているかのようであった。彼は、自分は主については他の人間について考えるようにしか考えることは出来ないし、主は神であるとは考えることは出来ない、と言ったものの、神的なものが主の中に在る、とは言ったが、それは他の人間のもとに在るような神的なものであるという意味であった。彼はまた、主は非常に単純な方法で話し、賢明には話さなかったが、パウロは更に賢明に話した、とも言った。しかし彼は以下のことを示された、即ち、主は、まさしく予言者たちにより話されたように、幾多の相応したものにより、神的な知恵そのものから話されたのであり、従って、主御自身の神的なもの〔神性〕から話されたのであり、パウロはインスピレーション[霊感]を受けて話したことは事実ではあるが、予言者たちと同じようには話さなかったのであり、予言者たちは一つ一つの言葉もことごとく口授されたのである、しかしパウロのインスピレーション[霊感]は、彼が己がもとにある幾多のものに従って、流入してくるものを受けたということであって、それは全く異なったインスピレーションであり、相応したものによる天界との連結を全く持っていないものである、と。

 

 

 

2.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P84

 

‘87・3・1

今日は、一日に何回かイエスがおっしゃいました。(そばに主がおられると識別できた折りに)、「書くのが嫌にならないように、たゆまず書きなさい」と。

 

ヴァッスーラ 私の言葉が多くの人に知られることを 望んでいる、それらの言葉は私の口から直接発した言葉です、私によって あなたの中に吹き込まれたすべての啓示は 私からのものだからです。 このような仕方によっても私は働いているのです。 時折り すでに与えてあるすべての教えを生き生きとさせようと 私は訪れる。 私はあなたの救い主 いつもそばにいて、悪から引き離そうと構えている、私は我が言葉が人びとの心に染み通り とどまることを願いながら やって来た。 ヴァッスーラ ほかの人びとに代わって償いをしてくれるか?