小羊のような獣

 

 

聖母から司祭へ1989.6.13

 

 とくにわたしは、母として、今日、教会をおびやかしている大きな危険について警告しようと思いました。その危険は、教会を亡ぼそうとして加えられるたくさんの悪魔的な攻撃によるものです。

 この目的を果たすために海からのぼる黒い獣を助けるために、地からもうひとつの獣がのぼっています。「それは、小羊のような二本の角をもっている獣です」(黙示録13・11)。

聖書では、小羊はいつも、犠牲のシンボルでした。エジプトから出たその夜、小羊がいけにえにされ、その血をヘブライ人の家の“かもい”に塗りました。それはすべてのエジプト人に加えられる天罰から逃れさせるためでした。

 ヘブライ人の過越は、毎年、このことを記念するために、小羊をいけにえとしてこれを食べます。

 カルヴァリオ山上で、イエズス・キリストは、人類のあがないのために、ご自分をいけにえに捧げ、ご自分をわたしたちの過越とします。

 こうして、かれは、世のすべての罪をとり除くまことの神の小羊となります。

 

獣は、小羊のような二本の角をもっています(黙示録13・11)。

 生けにえのシンボルに司祭職のシンボルが密接に一致しています。そのシンボルとは二本の角です。

 旧約時代の大祭司は、二本の角のある帽子をかぶっていました。

 完全な司祭職を示すために教会の司教たちがかぶる帽子(ミートリア)にも、二本の角があります。

 豹に似た黒い獣は、フリーメーソンを示し、小羊のような二本の角をもっている獣は、教会の内部に侵入したフリーメーソン、すなわち教会的フリーメーソンを示していますが、これは高位聖職者の間に特に広がっています。教会内におけるフリーメーソンの侵入のことを、「悪魔が教会の上層部にまでは入りこむだろう」と、わたしはすでにファティマでそのことを予言したのです。

 フリーメーソンの役割は、偽りの偶像神を礼拝させて、人々の霊魂を亡ぼすことにありますが、教会フリーメーソンのねらいは、キリストとその教会を亡ぼすことにあります。このために、もう一つの偶像神、すなわち、偽りのキリストと、偽りの教会を作ることにあります。

(中略)

 

 イエズスは真理です。なぜなら、生けるみ言葉であるイエズスが神の啓示全体の泉と冠だからです。それで教会的フリーメーソンは、イエズスの神的みことばを、自然的、唯理的な解釈をもってくらませようと働いています。こうして、キリストのみ言葉をもと分かりやすくし、もっと容易に受けいれさせるために、そのすべての超自然的内容をはぎとります。

 こうして、カトリック教会自体、いたる所に謬説が広がっていきます。これらの謬説が広げられる結果として、今日多くの人は、まことの信仰から離れていきます。このようにして、わたしがファティマで告げた予言、すなわち、「多くの人がまことの信仰を失う時が来るでしょう」という予言が実現されるのです。信仰を失うことは、棄教です。教会的フリーメーソンは、すべての人を棄教にみちびくために、腹黒い悪魔的な方法をもって働いています。

 イエズスは聖寵(めぐみ)をお与えになるがゆえに、生命(いのち)です。

 教会的フリーメーソンの目的は、罪を正当化すること、罪を悪としてではなく、一つの価値、一つの善として紹介することにあります。

 このために、人間性の要求を満足させるための手段として、罪を犯すようにはげましています。こうして、心に痛悔が生じ得る根を破壊し、罪をもう告白する必要はないといっているのです。

 全教会に広がったこの呪うべき癌の非常に有害な結果として、個別告白はどこにおいても消えてしまったのです。

 つまり、人々の霊魂は、イエズスが与えてくださった命の賜を拒絶して、罪の中に生きることになれてしまうのです。

 イエズスは、福音を通して、おん父に導く道です。

 教会的フリーメーソンは、種々の“文学類型”を適用して唯理主義による自然的解釈を紹介する聖書解釈をはげますのです。こうして福音書は、どこからでもあらされてしまうのです。この結果として最後には、キリストの奇跡、また復活の歴史的な事実さえも否定するようになり、キリストの神性そのものと、救い主としての使命そのものまでも疑わしいものとします。

 

―歴史的なキリストを破壊してから、小羊のような二本の角をもっている獣は、神秘的なキリストである教会を亡ぼそうと努力します。

キリストによって制定された教会は、ただ一つです。つまり、ペトロの土台の上に建てられた一、聖、公、使徒伝来の教会です。

 イエズスによって建てられ、その神秘的な体である教会も、イエズスと同じように道、真理、生命です。

 

 ―教会は真理です。なぜなら、イエズスが信仰の遺産全部を完全に守る使命をおまかせになったからです。それは、教皇と、教皇と一致している司教たちからなる位階教会にこの使命をおまかせになったからです。

教会的フリーメーソンは、偽りのエキュメニズムをもって、この事実を破壊しようとしています。偽りのエキュメニズムは、すべてのキリスト教の諸教会は、それぞれ真理の一部分をもっているのであるからということで、それらを全部一様に受け入れなければならないと主張します。 このエキュメニズムは、キリスト教のすべての教会、中でもカトリック教会も含めて、統一させた世界的エキュメニカルな教会をつくろうとする計画をはげましています。

 

―教会は、恩寵(めぐみ)を与えるがゆえに生命(いのち)であります。教会だけが、恵みをさずけるための有効な手段、すなわち七つの秘跡を持っています。

 教会は特別な生命(いのち)です。なぜなら、教会だけが奉仕的位階的司祭職を通してご聖体を生み出す権能を持っているからです。ご聖体のうちに、イエズス・キリストは、その光栄あるおん体とその神性をもって、実際に現存しています。

 教会的フリーメーソンは、多くの腹黒い方法をもって、ご聖体の秘跡に対する教会の信心を攻撃しようと努力しています。

フリーメーソンは、晩餐の面だけを目立たせて、その犠牲(いけにえ)としての価値を最小限とし、聖別されたホスチアにおけるイエズスの、実際上の位格的現存を否定しようと努力します。

 このために、ご聖体におけるイエズスの、実際の現存に対する信仰を示す全ての外部的なしるしを、少しずつ取り消してしまったのです。しるしとは、ひざまずくこと、公式礼拝の聖時間、聖櫃を灯明と花で飾る聖なる習慣などのことです。

 

―教会は道です。なぜなら、おん子により、聖霊をとおして、完全な一致の歩みのうちに、おん父へと導くからです。

 おん父とおん子とが、一つであるように、あなたたちもお互いに一つでなければなりません。

 イエズスは、教会が全人類の一致のしるしとなり、手立てとなるようにお定めになったのです。

 教会は、その一致の隅の親石の上にたてられていることにおいて、一つであることができます。

 その親石は、ペトロとペトロのカリスマを受けついでいる教皇です。

 そのために、教会的フリーメーソンは、教皇に対する腹黒いあざむきの攻撃をもって、教会の一致の土台を破壊しようと努力します。

 教皇に対する不賛成と反対の網をはるのも、教皇を侮辱し、従わない人を支持して報いを与えるのも、また、司教たちや神学者たちの批判と抵抗を宣伝するのも、教会的フリーメーソンです。

 こうして、教会の一致の土台そのものが破壊され、教会は次第に傷つけられ、分裂します。