子供への愛

 

 

 

天界の秘義1272

 

 その後でかれらの女たちがいかような服装をしているかをわたしは示された。かれらは頭にまるい黒色の帽子をつけていたが、それは前の方が尖塔のように突き出ていた。かれらの顔は小さかったが、その男たちはあら毛をはやして、毛深かった。わたしはまたかれらがその子供たちが非常に多くいることをいかに誇っているかを、またかれらが何処へ行こうと必ずその子供たちをともに連れて行き、子供たちはかれらの前で曲線をつくって歩いて行くありさまも示された。しかしかれらは以下のように話されたのである、すなわち、獣もまた、その最悪のものでさえも、ことごとくその子供らには愛をもっているから、そのことはかれらの中に何か善いものがあるという証明になりはしない、もしかれらがかれら自身とかれら自身の光栄を求めるかれらの愛から子供たちを愛さないで、共通の善のために、人間社会が増大するようにとの意図から愛したとするなら、とくに、もしかれらが、天界が子供たちにより増大するために、かくて主の王国のために、子供たちを愛したとするなら、そのときは子供たちに対するかれらの愛は純粋なものであったであろう、と。

 

 

天界の秘義1921[3]

 

 エホバからみごもった方はエホバ以外の内なるものを、すなわち霊魂を持たれはしない、それで主はその生命そのものの方面ではエホバ御自身であられたのである。エホバは、または神的な本質は、子供がみごもる源泉であるところの人間の父の霊魂が分割されることができるようには、分割されることはできないのである。この子供[人間の子供]は父親に似ていることから遠ざかるに応じて[父親に似なくなるに応じて]、父からも遠ざかって、それはますます年がすすむにつれて甚だしくなって行く。このことから子供たちに対する父の愛もその子供たちが年を取るにつれて減退して行くのである。主にあってはそうではなかった、すなわち、主は年がすすむにつれて、その人間的な本質の方面では後退されないで、絶えず益々近づかれて、ついには完全な結合にさえも達しられたのである。ここから主は、主もまた明らかに教えられているように(ヨハネ14・6、8−11)、父、エホバと同じ方であられることが明白である。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P56

 

 わたしはこれをこの作品の始まりで、またこの悲劇的な戦争のさなかで言った。そして今繰返して言う。『これは反キリストの時代を準備する戦争の一つだ』と。つぎに来るのは生きた霊魂の時代だろう。この時代を受け入れるために自分を準備する人々は幸いである。

 『わたしたちはもうその時代には生きていないだろう』と言ってはならない。あなたたちではなく、あなたたち皆ではない。だが、自分のことしか考えないのは愚かで愛徳に欠けることである。無神論者の父からは無神論者の息子が生まれる。無気力な父親からは無気力な息子が生まれる。そして彼ら、あなたたちの子供たちや、そのまた子供たちは、あの時のためにどれほど多くの霊的力を必要とすることだろう!結局、子供たちや孫たちの幸せを用意してやるのは人間的な愛の掟なのだ。現世的なことがらについて示す努力よりも、霊的なことに関して為す努力をそこそこにしてはならないし、子供たちがあなたたちよりも幸せな日々を送れるように、彼らに財産を与え、あるいはそれを残すために努めるよりも、彼らに霊的な力を遺産として残すために骨を折りなさい。世とルシフェルとの最終的な戦いの雹が、地獄のほうがまだましだと思われるほどの残忍さで人類を鞭打つとき、彼らが霊的な力をふんだんに持つために働き、その力を増加させることが出来るように。

 地獄!人類はそれを体験するだろう。そのあと、霊魂に忠実な人々には楽園が到来するだろう。現世ではない地球、すなわち王国が到来するだろう。

 

 

(幼児の愛または溺愛について)

霊界日記1906