天界の秘義3704

 

天界においては、また人間のもとでは、実に自然全体においてすら、凡ゆるものは全般的にもまた個別的にも、善と真理とにかかわりを持っているため、それで主の神的なものもまた神的善と神的真理とに区別され、主の神的善は『父』と呼ばれ、その神的真理は『子』と呼ばれているが、しかし主の神的なものは善以外の何ものでもなく、実に善それ自体であり、神的真理は天界に、すなわち、天使たちの前に、そのように[神的真理として]現れている主の神的善である。このかんの実情は太陽の場合と同一である。すなわち太陽それ自体はその本質では火以外の何ものでもなく、そこから見られる光は太陽の中には存在しないで太陽から発しているのである。(主は神的善の方面では太陽により表象され、また他生では主は天界全体に対しては太陽であれらることは、前の1053、1521、1529−1531、2495、3636、3643番に見ることができよう、主は神的真理の方面では光により表象され、また他生では天界全体に対しては光であられることについては1053、1521、1529、1530、2776、3138、3195、3222、3223、3339、3341、3636、3643番を参照されたい)。

 

 

天界の秘義3704[2]

 

 かくて主はその本質では神的善以外の何ものでもなく、しかもそれは神的なものそれ自身にも神的な人間的なものにも言われるが、しかし神的真理は神的善には存在しないで、神的善から発しているのである。なぜなら前に言ったように神的善は天界にはそのように現れているからである。そして神的善は神的真理として現れているため、それで人間に把握されるために主の神的なものは神的善と神的真理とに区別されており、神的善は聖言で『父』と呼ばれるものであり、神的真理は『子』と呼ばれるものである。このことが主御自身がその父について自分とは明確に区別されるものとして、恰も御自身とは別のものであるかのように再三語られつつも、他の所では父は御自身と一つのものであると主張されているという事実に隠れているアルカナである。(内意では『父』は善を意味し、その最高の意義では神的善の方面の主を意味していることは、前の3703番に示されたところであり、また『子』は真理を意味し、『神の子』と『人の子』は神的真理の方面の主を意味しているのである、1729、1730、2159、2803、2813番)。そしてそのことは主がその『父』のことを言われて、御自身を、『子』と呼ばれている凡ての記事から明白である。

 

 

天界の秘義3704[3]

 

 旧約聖書の聖言に『エホバ』と呼ばれたもうのは主であることは前に見ることができよう(1343、1736、2921番)、主はまたそこで『父』と呼ばれたもうことは以下の記事から明白である―

 

 わたしたちに一人の子供が生まれたもうた、わたしたちは一人の御子[息子]を与えられた、まつりごとはその肩の上に在るであろう、その名は驚異、勧告者、神、英雄、永遠の父、平和の君と呼ばれたもうであろう(イザヤ9・6)。

 

 ここには『生まれたもうた子供』と『わたしたちに与えられた御子』は主であることは極めて明白であり、かくて『永遠の父』と呼ばれたもう者は主である。