棄教

1.聖書

2.聖母から司祭へ

3.ヴァッスーラ

4.マリア・ワルトルタ

5.スウェーデンボルグ

6.対立

 

1.聖書

 

エレミヤ16・

 

 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。「見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる。」

 あなたが、この民にこれらの言葉をすべて告げるならば、彼らはあなたに、「なぜ主はこの大いなる災いをもたらす、と言って我々を脅かされるのか。我々はどのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのか」と言うであろう。あなたは、彼らに答えるがよい。「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」と主は言われる。「彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守らなかった。お前たちは先祖よりも、更に重い悪を行なった。おのおのそのかたくなで悪い心に従って歩み、わたしに聞き従わなかった。わたしは、お前たちをこの地から、お前たちの先祖も知らなかった地へ追放する。お前たちは、そのところで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。もはやわたしは、お前たちに恩恵を施さない。」

 

 

エレミヤ17・12

 

栄光の御座、いにしえよりの天

我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。

あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。

あなたを離れ去る者は

地下に行く者として記される。

生ける水の源である主を捨てたからだ。

 

 

ルカ18・8

 

しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。

 

 

テサロニケ2・2・3−2

 

だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。

 

 

2.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1990.3.13

サンパウロ市(ブラジル)

 

人の子が帰るとき

 あなたたちは、福音書の中で次のことばを読んでいます、「人の子が来るとき、地上に信仰をみい出すだろうか」(ルカ18・8)と。

 わたしの子イエズスが言われたみことばを黙想するように、今日わたしはすすめます。

 厳格なことばです。また反省させることばで、今あなたたちが生きているこの時代を理解させることができるみことばです。

 まず第一に、なぜイエズスがこのみことばを言われたかを考えることができます。それは、ご自分の第二の来臨を準備させて、光栄のうちに戻ってこられる時が近いことを示す一つの事態をあなたたちに知らせるためです。

 この事態というのは、信仰を失うということです。

 聖書の他の所にも、つまり―テサロニケ人への聖パウロの第二の手紙(2・3)においても、キリストが光栄のうちにお戻りになる以前に大きな棄教があるということが明らかに示されています。

 信仰を失うことは、本当の棄教です。

 したがって、棄教が広がっていくのは、主の第二の来臨が近いことを示すしるしです。

 

―ファティマで、わたしは、いつかまことの信仰が失われる時が来るだろうと予告しました。

 その時とは今です。

 あなたたちの、これらの日々には、聖書によって予告されたこの悲しむべき意味ぶかい事態によるしるしがあります。すなわち、まことの信仰がわたしの子らの中からますます多く消えていくということです。

 信仰を失う理由を次にかかげましょう。

(1)謬説が広がること。これらの謬説は宣伝され、多くの場合、神学校において、神学校の先生たちから、また、カトリックの学校においても教えられています。それで、ある程度まで本当らしいもの、正当化されたものとして考えられています。

(2)教会の真正な教導職、とくに教皇の教導職に対するはっきりした公の反対。でも教皇は教会全体をカトリック的な信仰の真理のうちに守る役割をキリストからうけているのです。

(3)世間の精神に完全に服従した牧者たちの悪い手本。この牧者たちは、キリストと、その福音をのべ伝えるかわりに、政治的な、社会

的なイデオロギーを宣伝するものとなっています。こうしてかれらは、「全世界に行って、すべての人に福音をのべ伝えよ」というキリストから受けた使命を忘れています。

   こうして、あなたたちのこれらの日々において、わたしの沢山のかわいそうな子らのうちにも棄教は日増しに広がってきます。

 

 

3.ヴァッスーラ

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか/現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P97

 

ヴァッスーラ:世の中には、神に会ったことがないのに、神について話をする方が多いですね。それはその人たちの責任ではありません。最初にイエスが私に話をするために近付いてこられたとき、私が何も知らないので、こうおっしゃいました。 「どうやら、何も教えられていないようだね」。あの時はわたしをかばおうとなさったのです。でも、本当にそうでした。イエスとは誰なのか、本当のイエスについて、だれも教えてくれませんでした。今日、人々が信仰を捨て、神のことを知らないでいるとしたら、それは、どんな方なのか知らないからです。人々が教会へ行くのは、単に行かなければならない義務があると言われたからであったり、教会とよい関係を保つためであって、そこには愛がありません。でもそれはちがいます。今日、神はメッセ―ジを通して御自分の考えを説明し、すべての人間に理解しやすいやり方で姿を現そうとなさっています。神はペルソナであって、抽象的な原理ではありません。多くの人々が、それもキリスト教徒の中にさえ、どこかでその栄光の中にいます抽象的な神のイメージを作り上げている人がいます。神は私の話を聞いてくださるのか? 聞いてくださらないのか? 私をご覧になっているのか? ご覧になっていないのか?

 

ネランク:それは哲学者の神です。

 

ヴァッスーラ:哲学者たちは、神からはるかに遠いところにいます。はるか彼方にです。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P104

‘87.3.8

 

来て 私を知るようになりなさい、手が届かない者ではないのです、私たちは肩を並べて歩いている、あなた方は私の中に生きていて 私はあなた方の中に生きている、私たちは決して離れることがない、  ♡ 決して。来て私の無限の善良さの中から汲み取りなさい、そしてあなた方の心の狭さを私の清さの中に溶解させてしまいなさい。 ああ 我が子よ、私の愛する子どもたちの多くは 洗礼によって神のものとなったが 私を在りのままの姿で知っている者は大変少ない。 私を愛する父として頼ることを忘れ、届かないところにいる者だと思って離れて行く。 多くは自分流にしか私のことを見なさず、飽くことのない見下げた卑しい心の傾きの感情を私に押しつけている  ♡ 、ある者たちは私のことを怖いとしか思わず、ほかの者たちは私の無限の愛を疑う。*

 

(このメッセ―ジは3・18日のメッセ―ジに続く)

 

ここで注文してあったトリノの聖骸布の写真が届いたことで、ちょっと中断しました。それを見て黙想し、そしてそれを見ながら、また、書き始めました。

 

覚えておきなさい、私は今でも苦しんでいる。 ヴァッスーラ なんと辛く苦々しいか、どうして、どうして私の羊たちがこんなに多く散ってしまったのか。 彼らを見なさい、私の十字架は無駄だったか。娘よ、私は、なんとがっかりしていることか、私の霊魂はなんと徹底的に打ちのめされてしまったであろう、私は苦しむ。 私の羊たちを養いなさい。 書くことに疲れてしまわないように。

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/327・4/5巻中P64

 

 たいへん善良なの善い子供たちは、善意を持っていなければならない。に対し、兄弟に対して。兄弟が何になったとしても、彼らは同じの子供たちです。彼らが罪人、あるいは棄教者、あるいは異教徒となっての悲しみの原因になっているなら、の子供たちをのもとに取り戻すことによっての悲しみを慰めようと努めるのが、への善意だ。兄弟たちに対しては、彼らが罪に汚された体に閉じ込められ、誤った宗教によって鈍くなっているとしても、によって創られた魂を持ち、私たちと同じの魂たちなのだから善意をつくしなさい。

 覚えておきなさい、あなたたちイスラエルの民よ、たとえ神から最も遠い偶像崇拝者、異教徒の中でも最も異教的な異教徒、人間の中でも最も不信心な人間でも、原初の痕跡を完全に失っている人間はいない。覚えておきなさい、間違ってしまった人、私たちの宗教によって非難された外国人との婚姻によって、私たちの正しい宗教から離れた人、あなたの中のイスラエル的なものが、異なる信仰、異なる人種の人間への愛のために窒息させられたと思うかもしれないが、それは死んではいない。何かがまだ生きている。そしてそれはイスラエルだ。消えそうな火を吹いて起こし、の御意志によってまだ存在している火花を大きくしなさい。それが肉体的な愛を圧倒するように。肉体的な愛は死によって終わるが、魂は終わらない。これを覚えておきなさい。そして、あなたたち、あなたがだれであれ、イスラエルの娘が外国人や異教徒と結婚しているのを見る人、あるいは見て恐れを抱く人、覚えておきなさい。間違った場所に置かれた姉妹を慈悲深く支えるのはあなた方の義務であり、責任であるということを。彼女がのもとへ戻る道を見つけられるように。これが、新しい神聖なです。の意に沿うものだ。贖い主に従う者たちは、贖われるべき人をすべて贖いなさい。そうすれば、父の家に戻る魂たちには微笑まれ、贖い主の犠牲が無益なことでも、悲惨なことでもなくなるでしょう。

 主婦はパンを発酵させるとき、翌週のためにパン種を少し取っておきます。おお! 全体の塊の中から、ほんの少しに過ぎない。そして、それを生地の中に埋め、家の中の適温のところに、すきま風が当らないように保存しておく。あなた方も同じようにしなさい。善の信奉者であるあなた方、そして、御父とその王国から離れているあなた方。前者は後者に、自分のパン種を少し与えて後者を支え、強めなさい。後者はそれを、まだ自分の中に存在する正義の粒子に加えなさい。あなた方はどちらも、新しいパン種を悪の敵対的なすきま風から守り、愛の暖かさのなかで守りなさい。あなた方の中に在るものに応じて。女主人であれ、あるいは今は弱っているがまだ生き残っている者であれ。あなた方の家庭の暖かさで支えなさい。間違った場所に置かれた同じ宗教の信者の心の中で発酵しているのと同じ信仰で支えなさい。彼女がまだ愛されていると感じられるように。彼女がまだシオンの娘であると感じ、あなたたちの姉妹であり、彼女の善い意志が実現し、天の王国はすべての魂にやって来ると、感じることができるように」。

 

 

5.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義6959〔2〕

 

 霊的な教会の者たちは、その子供の頃、また後にはその青年時代にその教会の教義的な事柄を信じるが、しかしその時は彼らは両親や教師から信仰を得るのであり、彼ら自身から得ているのではない、それで後になって彼らは信仰から遠ざかるにしても、その真理を彼らは極めて僅かしか冒涜しないのであり、その冒涜は神的な手段によって除かれることが出来、かくてその当人はその罪責から自由にされることが出来るのである。しかし、もし人間が自分自身から、即ち、自分自身の中で色々と確認することによって教会の教義を、また聖言を信じるなら、そしてその後になって(そこから)遠ざかり、以前信じていたものを自分自身の中に否定するなら、特に彼が自分自身の中に確認していた真理に反した生活をし、それを自分自身に有利になるように説明するか、または全然それを斥けてしまうか、するなら、彼は真理を冒涜するのであり、それは彼が彼自身の中に真理と誤謬とを混入させ、連結させるためである。こうした人物は真理と善との残りのものを殆ど全く持っていないため、彼らは他生では遂には骸骨のようになり、肉の有機的な生命に比較されると骨には生命が残っていないほどにも、生命は残らなくなるのである。しかし真理を冒涜する者の運命よりは善を冒涜する者の運命は更に痛ましい、主の霊的な教会に属している者たちは真理を冒涜することは出来るが、善をそれほど冒涜することは出来ないのである。

 

 

天界の秘義6959〔3〕

 

『癩病』は真理を冒涜することを意味しているため、またそれが以下の記事に取扱われている主題でもあるため、冒涜について前に言いもし、示しもしたことを先ず参照されたい、即ち、教会の中にいる者たちは聖い物を冒涜することが出来るが、教会の外にいる者たちはそれを冒涜することは出来ない(2051、3399番)、聖い事柄は、それを以前に承認した者たちによらなくては冒涜されることは出来ない(1008、1010、1059、3398、3898、4289番)、真理と善とを承認し、信じつつも、それに反した生活を送ることもまた冒涜である(4601番)、人間は可能な限り冒涜から遠ざけられる(301−303、1327、1328、3398、3402、番)、冒涜者たちの運命は他生では凡てのものの中でも最悪である(6348番)。

 

 

神の摂理91

 

知恵から主を承認することは、本質的には知識に過ぎず、それは教義から発しており、愛から主を承認することは教義に従った生活から発して、これは結合を生むが、他方は現存を生むに過ぎない。主に関わる凡ての教えを軽蔑する者が主から遠ざかる理由はこれである。彼らはまたこうした教えに従う生活を軽蔑するため、その信念のため主から分離する、一方教義は軽蔑しないが、それを生活で無視する者は、主の前にいるが、なお主から離れている。彼らは共に話し合ってはいるが、愛し合ってはいない友達同志のようなものであり、また二人の中一人は他の一人に友のように話してはいるが、これを敵として憎んでいるようなものである。このことは一般的に認められている、なぜなら正しく教え、正しく生きる者は救われるが、正しく教えはするが、邪悪な生活を送る者は救われないこと、また神を信じない者は救われることは出来ないことは良く知られているからである。これらの考察により、いわゆる信仰から主について考えるが、仁慈から行動しないことはいかような種類の信仰であるかが明らかである。それ故主は語られている『なぜ私を主よ、主よと呼んで、私の言うところを行わないのか。私に来て、私の言うところを聞き、これを行う者はすべて岩の上に基を据え、家を建てる者に似ているが、聞いて行わない者は基無しに家を地に建てる者に似ている』(ルカ6・46−49)。

 

 

 

 

6.対立

 

天界の秘義7042

 

文字の意義からは、『エホバが彼に会われた』と言われているため、エホバまたは神的なものが御自身を対立させられたかのように見えるが、しかし内意はその対立は神的なものに対するものであったということである。なぜなら神的なものは何人にもそれ自身を対立させ給うことはなく、神的なものにそれ自身を対立させるものはその人間、またはその国民であり、それが神的なものに堪えることが出来ないため、それ自身を対立させる時、神的なものが対立されるかのように見えるからである。この間の実情は他生に入って来て、天界へ入ろうと願いはするものの、そこにいることの出来るような者ではない者から認めることが出来るのである。彼らはその欲するものを試みることが許される時、天界に向って進み、その入口に近づく時ですらも、そこに存在している真理と善とに堪えることが出来ないため、自分が自分自身には怪物のように見えて、苦しみ悶え、責め苛まれ初め、天界と神的なものとはそれ自身を彼らに対立させていると信じはするが、そうしたことを彼ら自身にもたらすものこそ彼らなのである、なぜなら彼らは対立したものの中にいるからである。このことからまた神的なものは何人にもそれ自身を対立させ給いはしないが、神的なものに自分自身を対立させるものはその人間であることを認めることが出来よう。