聞く
1.聖書
2.服従
3.意志における信仰
4.聖母から司祭へ
5.信仰の主要問題となるそれらの真理は、実に聞くことによって入り来たり、心の中に植え付けられ、かくて霊魂の下に植え付けられる
1.聖書より
サムエル記上3・10
主は来てそこに立たれ、これまでと同じようにサムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
イザヤ6・9−10
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
マタイ11・13−15
すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。
マタイ13・13―17
だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。
マタイ13・40−43
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。
マルコ4・1−12
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。」
マルコ4・22−23
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。
マルコ7・14−23
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」*聞く耳のある者は聞きなさい。イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。
ヨハネ8・44−47
あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。
2.服従
この民の心をふとらせ、その耳を重くし(ものうくし)、目を閉じよ、仮にも彼らが目で見、耳で聞き、心で悟らないためである(イザヤ6・10)。
ここでは『目で見る』ことは理解することであり、『耳で聞く』ことは、情愛をもって認めることであり、従って服従することである。主が『聞く耳のある者には聞かせよ』と言われているところではそれ以外のことは何ら意味されてはいないのである(マタイ11・15、13・9、43、ルカ8・8、14、35)。
3.意志における信仰
天界の秘義3869
内的な意義では「聞くこと」は服従であり、内意では意志における信仰。
天界の秘義3869
内的な意義では『聞くこと』は服従であり、内意では意志における信仰であることは(間もなく認められるように)聖言の多くの記事から明白であり、また見ることの性質に関連した聞くことの性質からも明白である。『見ること』は内的な意義では理解することであり、内意では、理解における信仰であることは前に見ることが出来よう(3863番を参照)、そのことは事柄の性質は内なる視覚により明白になり、そのことによって事柄は一種の信仰により把握されるが、しかし知的な種類のものにより把握されるためである。それと同じように聞かれる事柄が内部に浸透すると、その事柄もまた視覚のようなものに変化するのである、なぜなら聞かれるものは内的な内的に見られるからであり、それで『聞くこと』により『見ること』により意味されているものもまた意味され、すなわち、理解のものであるものが、また信仰のものであるものが意味されるが、しかしそれと同時に聞くことの実情はそのようなものであると説きつけて、単に人間の知的な部分のみでなく、その意志の部分をも動かして、彼にその見るものを意志させるのである、そこから聞くことは物事を理解すると同時に服従することを意味し、霊的な意義では、意志における信仰を意味している。
天界の秘義3869[4]
『エホバは聞かれること』により―そのことからシメオンは名付けられたのであるが、そのことにより―その内的な意義では服従が意味され、その内意では主のみから発している意志における信仰が意味されていることは聖言における非常に多くの記事から明らかであり、例えば以下の記事から明らかである。マタイ伝には―
見よ、雲から声が聞こえて、言った、これは私の愛する息子である、これはわたしの非常に喜ぶ者である、あなたたちはその者に聞きなさい(マタイ17・5)。
『その者に聞くこと』はかれに対する信仰を持つことを、かれの戒めに服従することを意味しており、かくて意志における信仰を持つことを意味している。ヨハネ伝には―
まことに、まことに、わたしはあなたたちに言う、死んだ者が神の子の声を聞く時が来る、聞く者は生きるであろう。そのことを怪しんではならない、墓の中にいる者がことごとくかれの声を聞く時が来るからである(ヨハネ5・25、28)。
『神の子の声を聞くこと』は主の御言葉に対する信仰を持つことを、その御言葉を意志することを意味している。意志の信仰を持つ者たちは生命を受けるのであり、それで『聞く者は生きるであろう』と言われている。
天界の秘義3869[5]
さらに―
門から入る者は羊の羊飼いである、かれに門番は開き、羊はかれの声を聞く。わたしにはこのおりのものでない他の羊がいる、かれらもまたわたしはつれてこなくてはならない、かれらはわたしの声を聞くであろう、かくて一つの群、一人の羊飼いがいるであろう。わたしの羊はわたしの声を聞く、わたしはかれらを知り、かれらはわたしについてくる(ヨハネ10・2、3、16、27)。
『声を聞くこと』は明らかに意志の信仰から服従することを意味している。さらに―
凡て真理のものである者はわたしの声を聞く(ヨハネ18・37)。
ここにも同じことが意味されている。ルカ伝には―
アブラハムは彼に言った、彼らにはモーセと予言者がいます、彼らに彼らの言うことを聞かせなさい。もし彼らがモーセと予言者たちの言葉を聞かないなら、たれかが死人から甦っても彼らは説得されはしないであろう(ルカ16・29、31)。
『モーセと予言者たち(の言葉)を聞くこと』は聖言に含まれている言葉を知り、その事柄に対する信仰を持つことを意味しており、かくてまたその事柄を意志する[欲する]ことを意味している、なぜなら信仰を持って意志しないことは、見て聞かないことであるが、しかし信仰を持って意志することは、『見る』ことでもあり、また『聞く』ことでもあり、それで『見ること』も『聞くこと』もともに聖言に遍く言われており、『見ること』によっては『ルベン』によって意味されていることと同じことが意味され、『聞くこと』によっては『シメオン』により意味されているからである、なぜならそれらは兄弟が兄弟に結合しているように共に結合しているからである。
4.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1977.9.8
私が話したことを生きるようにしてください。あなたがたが聞くために、私は話しているのです。
私の言葉を聞いたということは、それを全面的に、実行した時にいえることです。
私の言葉に疑問と不安を吹き込む人に対して、あなたがたは、私の言葉を心にとめてください。
私の言葉が、真実であることを、自分にも他人にも証明したいなら、それを実践して下さい。
5.信仰の主要問題となるそれらの真理は、実に聞くことによって入り来たり、心の中に植え付けられ、かくて霊魂の下に植え付けられる
真の基督教8
人間へ神からの流入があることは、それ自身善であり、また、人間の中にあり、而して人間によって為される善は凡て、神から由来し、また凡ての仁慈と信仰とは神から来ていることが一般的に認められているということに含まれている。何故ならつぎの如く記されているからである。「人は天より与えられずば、何をも受くること能はず。」(ヨハネ3・27)。「而してイエス語り給う、汝ら我を離れては何ごとをも為し能はず。」(ヨハネ15・5) 即ち、仁慈あるいは信仰の何物をも為し得ないのである。人間の霊魂にこのような流入があるのは、霊魂は人間の最も深い且つ最も高い部分であり、神より来る流入はその中に入り、そこから下の物に入り、そしてこれをその霊魂が流入を受けるに応じて活かすからである。今後、信仰の主要問題となるそれらの真理は、実に聞くことによって入り来たり、心の中に植え付けられ、かくて霊魂の下に植え付けられる。
黙示録講解831[2]
そして天的な天使たちは聞くことにより知恵において完成されるため、天的霊的天使と呼ばれる中間的な天使がおり、彼らは、神の家と呼ばれて、木材で作られている彼らの神殿の中で真理を説き、教えている。