飢饉
1.飢饉
2.かつれて
1.飢饉
「地に飢饉があった」。これは主が子供であられた時そのもとでは知識がまだ乏しかったことを意味していることはすでに言ったことから明白である。幼少の頃は人間における知識は内的なものからは決して発しないで、感覚の対象から、とくに聞くことから発している。なぜなら、前に言ったように、外なる人の中に記憶の事柄と呼ばれている受容器官があって、この器官は―たれでも知っているように―知識により形成され、そこへ内なる人が流れ入って、助けており、従って知識は内なる人が流入するのに順応して学ばれて、記憶の中に飢えつけられている。
天界の秘義1460[2]
『飢饉』は知識の欠乏を意味していることは、聖言の他の所から明白であり、例えばイザヤ書には―
かれらはエホバの御業を熟視しない、その御手の為されることを見ない。それでわたしの民は知識を持たないため、捕らわれるようになる、かれらの栄えは飢饉で死ぬ者であり、その多くの者は渇きのためにやかれている(5・12、13)。
『飢饉で死ぬ者』は天的なものにかかわる知識の欠乏を意味し、『多くの者が渇きのためにやかれる』は霊的なものにかかわる知識の欠乏を意味している。
天界の秘義1460 [3]
エゼキエル書にも同じく―
そしてわたしはあなたらの上に飢きんをまし、あなたらのパンの支えを折るであろう、わたしはあなたらに飢きんと悪い野生の獣を送るであろう。それらはあなたのものを剥ぎとるであろう、わたしはあなたの上に剣をもたらすであろう(5・16、17)
『飢きん』は天的なものにかかわる知識を、または善にかかわる知識を、また善にかかわる知識を剥奪されて、そこから誤謬と悪とが発生することを意味している。ダビデの書には―
そしてかれは地に飢きんを呼びたまい、パンの支えをことごとくくだかれた(詩篇105・16)。
『パンの支えをくだくこと』は天界の食物を剥奪されることを意味している、なぜなら善い霊たちと天使たちとの生命は善と真理にかかわる知識以外の、また善と真理そのもの以外の食物によっては支えられないからであって、ここから『飢きん』と『パン』との内意が生まれているのである。さらに―
かれは喘ぎ求める魂を満ち足らせ、飢えた魂に善いものを満たされた(107・9)。
これは知識を求めている者たちを意味している。エレミヤ記には―
凡ゆる街路のさきに飢えて息も絶えようとしているあなたの幼い子供たちの魂のためにあなたの手を上げよ(哀歌2・19)。
『飢え』は知識の欠如を意味し、『街路』は真理を意味している。
天界の秘義5360
『飢饉』の意義は真理と善との欠如であり(1460、3364番)、従って荒廃[荒涼]である。飢饉はこのような欠如、または荒廃を意味していることは、天的な霊的な食物は善と真理以外の何ものでもないためである。これらのものは天使たちと霊たちとを養うものであり、またかれらが飢えたとき切望し、渇いたとき渇望するものであり、それでまた物質的な食物はそれに相応しているのである―例えばパンはたは食物にぞくしている凡ゆる物と同じく、パンは天的な愛に、ぶどう酒は霊的な愛に相応しているのである。それゆえこうしたものが欠けているとき、『飢饉』がおこり、聖言にはそれは『荒廃』と『剥奪』と呼ばれており―真理が欠けたときは『荒廃[荒涼]』、『善』が欠けた時は、『剥奪』と呼ばれているのである。
マリア・ヴァルトルタ/福音/上237/天使館/霊のパン2009年10月第5号/P24
イエズスが語る。「シモン・ペトロ、あなたの言うとおりです。わたしもこれらの霊魂とこの群集に同情します。多くの不運の取り返しのつかない原因になり得るでしょう。またわたしの真理の確実さを所有していない者たちの疲れ喪失感はいかばかりかを見つめ、すでにわたしの言葉を味わい、他のどんな言葉も最早彼らを満足させず、わたしの言葉なしにはいられない、あの人たちの飢えがいかばかりかを見なさい。彼らは、彼らを導き牧する人を見つけられず当てもなく彷徨っている、牧者のいない羊のようです。わたしは彼らの世話をしよう。しかし、あなたたちはあなたたちの霊的、道徳的、肉体的力の及ぶ限りわたしを助けてくれなければなりません。もう多数からなるグループではなく、二人ずつで行くようにしなさい。そしてわたしたちは、より優れた弟子たちを二人ずつで送り出しましょう。収穫は本当に大きいからです。ああ!この夏には、この偉大な使命のためにあなたたちを準備しよう。六−七月までにはより優れた弟子たちを連れて、わたしたちはイサクのもとに到着するでしょう。そして、わたしがあなたたちを準備します。それでも、あなたたちの人数だけでは足りないでしょう。なぜなら、収穫は実に多いのに働く人が少ないからです。だから、地球の収穫の主人に多くの働き人を送ってくださるよう、祈りなさい。」
聖母から司祭へ1980.3.1
私が連れていくこの砂漠で、あなたがたは、神のみことばにだけ、大きな飢えとかわきを感じ、同時に、ほかのどんなことばに対しても、嫌気を感じることでしょう。
キリストに倣いて1・3・2
ああ真理である神よ、私を永遠(とこしえ)の愛のうちに、主と一つにして下さい。
多く読んだり聞いたりすることは、しばしば私をウンザリさせます。しかし私の願うもの望むものはみなあなたの中にあるのです。
すべての学者は口を閉じよ、あらゆる被造物はみ前に黙せよ、ただ主だけ私にお語り下さい!
2.かつれて
天界の秘義6829
しかしその人間が試練から出て来ると、その時は光はその霊的な熱と共に、即ち、真理はその善と共に現れ、そこから彼は心労の後で喜びを得るのである。これが他生で夜に続いている朝である。善がその時認められ、真理が現れる理由は、試練の後で善と真理とは内部に浸透して、そこに根を張るということである。なぜなら人間が試練を受けている時は、彼は謂わば善に飢え、真理に渇いており、それで(試練から)出て来る時は、飢えた人間が食物をむさぼり食うように善を吸引し、渇いた人間が飲み水を飲むようにも真理を受けるからである。更に神的なものから光が現れると、幾多の誤謬と悪とは遠ざけられ、そしてこれらのものが遠ざけられると、真理と善とが更に内的に浸透する道が開かれるのである。これらが、試練の後で愛の善が主からその真理と共に現れてくる理由である。試練の暗さと心労との後に、輝きと喜びとが現れてくることは他生の凡ての者に知られている、なぜならそれはそこでは普通の出来事となっているからである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P271
神はまた、わたしたちがもっと神のことを知るべく努めることを望まれている。人から与えられた知識をバラバラなまま干からびさせておくよりは、せき立てられるような興味を通じて自ら学びとることの方が、はるかに有益だからである。