イザヤ49・2−3

 

わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き

わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して

わたしに言われた

あなたはわたしの僕、イスラエル

あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 

 

 

啓示による黙示録解説52

 

「その口から鋭いもろ刃のつるぎが出ていた」は、聖言により、また主から聖言から発する教義により誤謬を消散させることを意味している。聖言には再三『つるぎ』『サーベル』『長いつるぎ』のことが記されているが、それらによっては、誤謬と戦って、それを破壊する真理以外には何ごとも意味されておらず、また、その対立した意義では、真理と戦う誤謬が意味されている、なぜなら聖言では『戦い』により、誤謬に反抗する真理の戦いであり、また真理に反抗する誤謬の戦いである霊的な戦いが意味されており、それで『戦の武器』により、霊的な戦いに用いられる事柄が意味されている。主により誤謬の消散がここにつるぎにより意味していることは明白である、なぜならそれが『その口から出る』のが見られており、主の口から出ることは聖言から出ることであるから。なぜならこれを主はその御口で話されたからである。そして聖言は教義により理解されるため、そこから教義もまた意味されている。それが『鋭い、もろ刃のつるぎ』と呼ばれているのは、それが心(ハート)と魂(ソウル)とに浸透するためである。『つるぎ』によりここでは主から発した聖言により誤謬を消散させることが意味されていることを示すために、つるぎのことを記している若干の記事を引用しよう―

 

バビロンとその君らとその賢い者らとにむこう剣、ああ虚言を弄する者らに向う剣、彼らは愚か者となるであろう。ああ力ある者らに向う剣、彼らはろうばいするであろう、ああその馬と戦車とに向う剣、ああ宝に向う剣、それは強奪されるであろう。干ばつがその水の上にのぞむ、それは乾せ上るであろう(エレミヤ5035−38)

 

これらの事柄はバビロンについて言われ、バビロンにより聖言を誤謬化し、不善化する者らが意味されており、それで愚か者となる『虚言を弄する者』と、剣が臨む『馬と戦車』と、強奪される『財宝』により彼らの教義の誤謬が意味されている。干ばつにあって、渇せ上る『水』は真理を意味していることは前に見ることができよう(50番)。

 

 予言して言えよ、剣は鋭くされ、また研かれ、大いなる殺りくをするために鋭くされた、剣を三度くりかえさせよ、刺された者らの剣、大いに刺し、内部をつき通す剣。つまずかせる(木石の)かたまりは増すであろう(エゼキエル21・9−20)。

 

『剣』によりここにもまた教会における真理の荒廃が意味されている―

 

 エホバはその剣により凡ゆる肉[人]と抗弁され、エホバに刺された者らは増すであろう(イザヤ66・16)。

 

誤謬により滅びる者らは、ここに、また聖言の他の部分に『エホバに刺された者』と呼ばれている。

 

(中略)

 

イエスは代の終りについて言われる―

 

 彼らは剣の刃に倒れ、捕らえられて、凡ゆる国民のもとへ連れ去られ、ついにはエルサレムはふみにじられるであろう(ルカ21・24)。

 

『代の終り』は教会の最後の時であり、『剣』は真理を破壊する誤謬であり、『諸国民』はいくたの悪であり、ふみにじられる『エルサレム』は教会であり、ここから、『人の子の口から出ている鋭い剣』により主により聖言を手段として誤謬が消散されることが意味されていることが明白である。それと同じことが黙示録の以下の記事に意味されている―

 

 そしてその赤い馬に座っていた者に一ふりの大きな剣が与えられた(黙示録6・4)。

 

 白い馬に座られた方の口から一ふりの鋭い剣が出ている、かれはそれをもって諸国民を打たれる。そして残りの者はその馬に座られた方の剣で殺された(黙示録19・15、21)。

 

『白馬に座られた方』により聖言の方面の主が意味されており、そのことが明らかに宣べられている(13、16節)。そのことはダビデの書にも意味されている―

 

 ああ、力ある方よ、ももに剣をおびられよ。真理の言葉に乗られよ。あなたの矢は鋭い(詩篇45・3−5)。

 

これは主のことを述べている。また他の所には―

 

 聖徒たちは喜びおどり、その口の剣はその手の中に在る(詩篇149・5、6)。

 

またイザヤ書には―

 

 エホバはわたしの口を鋭い剣とされた(イザヤ49・2)。

 

 

 

天界の秘義1188

 

 教義のいくたの誤謬が『ニネベ』により意味され、他の起源から発したそのような事柄も『レホボテとカラー』により意味されていることは聖言のニネベの意義から明白であり、その意義については間もなく述べよう。こうした種類の誤謬は三つの起源から発している。最初のものは明るくされていない理解の不明確な状態における感覚の迷妄から発しまた無知から発していて、そこから『ニネベ』である誤謬が起っている。第二の起源はそれと同じ原因から発しているが、しかし革新または卓越を求める圧倒的欲念といったものをもっていて、こうした起源から発した誤謬は『レホボテ』である。第三の起源は人間が己が欲念を甘やかさない事柄をことごとく真理として認めることを欲しないという点で、意志から発しており、引いては欲念から発しており、そこから『カラー』と呼ばれている誤謬が発している。凡てこてらの誤謬はアッシルを通してまたは信仰の諸真理と諸善とについて色々と論じることから起っている。

 

 

 

天界の秘義1188[2]

 

『ニネベ』は明るくされていない理解の不明確な状態における感覚の迷妄から発したまた無知から発した誤謬を意味していることはヨナにより明白であり―かれはニネベにつかわされたが、その都はかれらがそのようなものであったため赦されたのであった―またそのことはニネベについてヨナ書に記された事項からも明白であり、そのことについては主の神的慈悲により他のところに述べよう。そこの事項は歴史的なものであるが、それでも予言的なものであって、聖言の他の凡ての歴史的なもののように、そうしたアルカナ[秘義]を含み、表象しているのである。

 

 

 

天界の秘義1188[3]

 

イザヤ書にも同じく、そこにはアッシルの王についてかれがニネベに止まり、かれの神ニスロクの家に身をかがめた時、かれの息子たちが剣でかれを殺したと言われている(37・37,38)。これらの事柄は歴史的なものであるけれども、しかも予言的なものであって、同じようなアルカナを含み、また表象しており、ここでは『ニネベ』により内に誤謬を宿した外なる礼拝が意味され、それが偶像崇拝であったため、かれはその息子たちにより剣で殺されたのである。『息子』は、前に示されたように、誤謬であり、『剣』は聖言の凡ゆるところにおけるように誤謬の刑罰[誤謬を罰すること]である。

 

 

 

天界の秘義2039[8]

 

こうした理由から割礼は二度命じられたのである、それについてはヨシュア記に―

 

  エホバはヨシュアに言われた、岩からあなたに剣を作って、二度イスラエルの息子たちに割礼を授けなさい、と。ヨシュアは岩から剣を作り、陽の皮[包皮]の岡でイスラエルの息子たちに割礼を授けた、エホバはヨシュアに言われた、今日わたしはあなたらからエジプトの恥辱をころがし去った、と。それで、かれはその所の名をキルガル(ころがし去る)と名づけた(5・2、3、9)。

 

 『岩の剣』はかれらがそれによって汚れたいくたの愛をこらしめ、消散させるためにかれらに浸透しなくてはならなかった真理を意味している、なぜなら真理の知識がなくては清められることは不可能であるからである。(『石』または『岩』は真理を意味していることは、前の643、1298番に示されたところであり、『剣』は悪をこらしめる真理について述べられることは、聖言から明白である。

 

 

 

天界の秘義2799

闘う真理。剥奪。

闘う誤謬。

 

 

 

天界の秘義2799[4]

 

同書には―

 

 白い馬に坐られた方の御口からは鋭い剣が出ていた、それをもってかれは諸国民を打たれる。彼らはその馬に坐られた方の剣により殺された、その剣はかれの御口から出ていた(黙示録19・15、21)。

 

ここには『かれの口から出ている剣』は闘う真理であることが明らかである。(白馬に坐られた方は聖言であり、かくて聖言であられる主であることは前の2760−2763番に見ることができよう)。ここから主はマタイ伝に言われている―

 

 わたしは地に平安をもたらすために来たと考えてはならない、わたしは平安をもたらすためでなく、剣をもたらすために来たのである(マタイ10・34)。

 

またルカ伝には―

 

 今は財布を持っている者はそれを取り、同じく袋を持っている者もそれを取りなさい、何も持たない者は、自分の上着を売って、剣を買いなさい。かれらは言った。見てください、ここに二ふりの剣があります、イエスは言われた、それで充分である(ルカ22・36−38)。

 

ここにはかれらが戦う源泉ともなり、また目的ともなっている真理以外には何ごとも『剣』によっては意味されていないのである。

 

 

 

天界の秘義2799[18]

 

ルカ伝には―

 

 地に大いなる困苦がのぞむであろう、憤りがこの民にのぞむであろう、かれらは剣の刃に倒れて、凡ての国民の間に捕らえ行かれ、ついにはエルサレムは諸々の国民によりふみにじられるであろう(ルカ21・23、24)。

 

ここに主は代の終結[完結]を話されており、文字の意義では、ユダヤ人が散らされてしまうこととエルサレムの破壊を話されているが、しかし内意では、教会の最後の状態を話されているのである。『剣の刃に倒れること』によりもはやいかような真理もなく、ただ誤謬のみが在ることが意味され、『あらゆる国民』により、かれらがその間に捕われて行くあらゆる種類の悪が意味され、『国民』が悪であることは前に見ることができよう(1259、1260、1849、1868番)、また『エルサレム』は教会であり(2117番)、それはこのようにして『ふみつけられる』のである。

 

 

 

天界の秘義2799[21]

 

「剣」がその純粋な意義では闘う真理を、その対立した意義では戦う誤謬を意味し、また真理の剥奪と誤謬の刑罰とを意味していることは他生における表象的なものからその起源を得ているのである。なぜなら、そこでたれかが自分ではそれが誤ったものであると知っている事柄を話すと、そのとき直ぐさまその者の頭の上に、小さな剣が降って来て、かれを戦慄させ、さらに、闘う真理は、剣のように、切っさきのあるものにより表象されているからである。なぜなら実際善を欠いた真理はこのような性質を持っているが、しかしそれが善に結合しているときは、円形をとって、おだやかであるからである。この起源から、「短刀」または「槍」または「小剣」または「剣」が聖言に記されている時は常に天使たちには闘う真理が暗示されるのである。

 

 

 

天界の秘義7456

 

『剣』は誤謬と戦い、これを破壊する真理を意味し、その対立した意義では真理と戦い、これを破壊する誤謬を意味している。

(2799、4499、6353、7102)