煙の炉
天界の秘義1861
「見よ、煙の炉と火のたいまつを」。『煙の炉』は最も甚だしい誤謬を意味し、『火のたいまつ』は欲念の燃える熱を意味していることは、『煙の炉』の意義が甚だしい誤謬であり、『火のたいまつ』の意義が欲念の燃える熱であることから明白である。『煙の炉』と言われているのは、真理を知ってはいるが、それでもそれを承認はしていないで、心の中でそれを否定しており、実にその生活を真理に反した事柄の中に過ごしている人間は、とくにそうした教会の人間は煙の炉のようにしか見えないためである、すなわち、その人間自身は炉として、その憎悪から発している誤謬は煙としてしか見えないためである。誤謬が発してくる源泉である欲念はそのような炉から発している火のたいまつとして現れており、そのこともまた他生における表象的なものから明白である。(そのことは814、1528番に経験から記されているところである)。このようなものとして現われ、またこのようなものになるものは、憎悪、復しゅう、残酷、姦淫の欲念であり、この欲念に詐欺が混合するときはそれはさらに甚だしくなるのである。
[2]聖言では『炉』『煙』『火』によりこうしたものが意味されていることは以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―
人はことごとく偽善者であり、邪悪な者であり、口はことごとく愚かなことを話している。邪悪は火として燃え、茨と刺とをやきつくし、森の茂みの中で燃え上がり、彼らは煙が立ちのぼっているようにのぼっている。万軍のエホバの憤りの中に地は暗くなり、民は火のための糧『火のもえぐさ』のようになり、人はその兄弟を容赦しようとはしない(9・17−19)。
ここでは『火』は憎悪を意味し、そこから発する『立ちのぼる煙』はそうした誤謬を意味し、憎悪はたれもその兄弟を容赦しないことにより記されている、なぜならこうした人間は天使たちから眺められると、ここに記されているようにしか見えないからである。
[3]ヨエル書には―
わたしは天と地にくすしいことを示そう、血と火と煙の柱を示そう。エホバの大いなる恐るべき日が来る前に、陽は暗黒に、月は血に変わるであろう(2・30,31)。
ここには『火』は憎悪を、『煙の柱』は誤謬を、『陽』は仁慈を、『月』は信仰を意味している。
[4]イザヤ書には―
地は燃える瀝青となって、夜も昼も消えないであろう、その煙は永遠に立ちのぼるであろう(34・9、10)。
『燃える瀝青』は凄まじい欲念を、『煙』は誤謬を意味している。
[5]マラキ書にはー
見よ、その日は炉のように燃えながらくる、すべてたかぶっている者は、また邪しまなことを行う者はことごとく切株となるであろう、そのくる日は彼らを燃やし、彼らには根も枝も残さないであろう(4・1)。
ここの『燃える炉』も前と同じことを意味し、『根』は仁慈を、『枝』は真理を意味しており、それは残されはしないのである。
[9]これらの記事では『火』は欲念を、『煙』は最後のときを遍く支配する誤謬を意味している。これらの事柄はヨハネによりその内的な視覚が開かれたとき、丁度それらのものが他生の中で現れるままに見られたのである。同じようなものがまた霊たちによりまた死後霊魂たちにより見られるのである。ここから地獄の火の何であるかを認めることができよう、すなわち、それは憎悪、復しゅう、残酷、またはそれと同一の、自己愛以外の何物でもないのである、なぜならそうしたものにこうしたものがなるからである。このような性質の人間は、その身体の生命の間では、外側ではいかように見えようとも、もし天使たちによりめんみつに点検されるなら、その天使たちの目にはそれ以外のものとしては見えないのである、すなわち、その者の憎悪は火のたいまつとして、そこから派生してくる誤謬は煙の炉として現れるのである。
[12]主の王国のアルカナ[秘義]に通じていない者は主は邪悪な者を地獄の中へまたはそうした火の中へ投げこまれると考えるが―その火は前に言ったように、憎悪の火であるが―しかし実情は極めて相違している、なぜならかれ自身を投げ下ろすものはその人間自身であり、またはその悪魔的な霊それ自身であるからである。しかしそれがそのように現れているため、それは聖言の中に外観にしたがって、実に感覚の迷妄にしたがって表現されているのであって、このことはとくにユダヤ人の場合には必要であったのである、なぜならかれらはいかようなものでもそれが感覚に一致していない限りは、たとえそのためいかほど迷妄[妄想]がそこに入りこんでくるにしても、受け入れようとはしなかったからである。そうした理由から文字の意義は、とくに予言者の書の中では、こうしたものに満ちているのである。
[14]
モーセの書には―
わたしの怒りにより火がもえている、それはもえていと低い地獄にさえもたっし、また地とその生産物をやきつくし、山々の基を燃やすであろう(申命記32・22)。
ここでは『火』は憎悪を、『煙』は人間の中にある誤謬を意味しており、それらはすでに述べた理由からエホバまたは主に帰せられているのである。地獄の中でもエホバがまたは主がそれを行われるように見えるが、しかし真実は全くその反対である。かれらは憎悪の火の中にいるため、それをかれら自身に行っているのである。ここから聖言の内意がもし知られないなら、人間はいかに容易に幻想[空想]に陥るかが明らかである。
[15]シナイ山で律法が布告されたとき人々から見られた『煙』と『火』も同様であった。なぜならエホバまたは主はたれにでもその者の性質に応じて現れたもうからである、すなわち天的な天使には太陽として、霊的な天使にはつきとして、善良な者にはすべて色々な歓ばしいまた快い光として現れておられるが、しかし悪い者には煙として焼きつくす火として現れておられるからである。そしてその律法が布告されたとき、ユダヤ人は仁慈をいささかも持っていないで、自己と世を求める愛に支配され、かくて悪と誤謬以外の何ものにも支配されいていなかったため、それで主はかれらには煙と火として現れたまいつつも、同時に天使たちには天界の太陽として現われたもうたのである。
[16]主はユダヤ人には、かれらはそうした性格をもっていたため、そのように現われたもうたことは、モーセの書に明白である―
エホバの栄光はシナイ山に止まった、エホバの栄光は、イスラエルの子孫の目には、山の頂上で焼きつくす火のように見えた(出エジプト記24・16、17)。
[17]たれであれ、その生活を憎悪と憎悪の醜悪なものの中に過ごして、万が一にも主を見まつるならその者にも全く同じようなことがおこるであろう、なぜならその者は主をその者の憎悪とその醜悪さからしか見まつることはできず、その憎悪と醜悪さが主から発する善と真理との光線を受ける器であってそれがその光線をそうした火と煙と暗闇とに変えてしまうからである。その同じ記事から『煙の炉』の何であるかが、また『たいまつ』の何であるかが明らかである。すなわち、それは最後の時に教会を占めてしまう最も甚だしい誤謬と最も汚れた悪である。