結果による証明

 

 

実によって木を知る(マタイ7・15)

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義375

 

 意志と理解の、心臓と肺臓との相応は、抽象的には、すなわち、たんなる理論によって証明されることはできないが、しかし結果により証明されることができよう。それは、合理的には認められることができるが、しかも結果によらなくては明らかにみとめられることのできない事物の原因の場合と非常に似ている、何故なら原因は結果の中に在って、結果によって原因自身を目に見えるものとし、そして原因はこのように目に見えるものになされない中は、心はそれについて確信をもたないからである。

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P421

 

キリスト教が有用である証拠の一つは、どの時代のどの国、どんな種類の境遇の人々にとっても、それが心に平安をもたらし、魂の飢え渇きを満たしてきたということだ。平和を発見できなかったのは、「見ても見ず、聞いても聞かぬ」者たち、換言すれば、天地の美の真只中にありながらその色が見えず、耳が付いていても、魂に響く音楽を味わう耳をもっていない人々だけである。

(中略)

真のキリスト教徒がどこからみても静寂で歓喜に溢れ、ついには勝利するという事実は、その人生に聖霊と神の現存が満ち満ちている結果であり、それが真のものである確たる証拠である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P423

 

わたしは、ヒマラヤ山中で、洞窟の中で裸で暮らしている野人と出会ったことがある。彼は砂糖をみたことも味わったこともなく、それを表現する言葉も知らなかった。わが友人が砂糖を手渡したところ、彼は初めのうち疑わしそうにこれを眺めていただ、一度味わうや喜びの表情を顔いっぱいに表した。食べる前には、砂糖があってもなくても彼には同じことだった。彼は実際、甘味について知り体験する前から、砂糖の甘みを味わう味覚をもっていたのだ。

 同じように、人間は「実在」の感覚をもっている。実在は人間とは別個の存在ではあるが、それを感じとる力は人間の中にある。

人は罪のためにこの感覚が死に、神の存在まで否定する場合がある。それでも悔い改め、純真な心で神を求めれば、実在者は必ずや自らを現わし、人は祝福を受けることだろう。その甘美な体験を言葉に表わすことができずとも、人の生き方と行ないがその実在を証明し続ける。

このような実在を体験した人が、経験ある霊的人物の著作や話の中に自分の秘めてきた思いを発見するときには常に、「これこそ自分が人に伝えたかったことだ!」と喜びの声を上げる。こうして真理を愛する者はみな一つとなって、神と交わった個人的体験から世界にキリスト教を証言するのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P425

 

この世界では、絶えず内部分裂によって引き裂かれ、外からの攻撃にさらされ続ければ、どんな国も宗教も立ち行かない。内と外から攻められれば、どんな要塞も都市も滅びる他ない。だが、キリスト教はまさにそうした、内憂外患の状態にある宗教である。外からは不可知論、無神論、この世の王国や闇の世界から攻め立てられ、内からは邪教を説く異端や、悪しき人生を歩む名ばかりのクリスチャンが、いつ果てるともなく攻め続ける。だが、こうした攻撃や障害のすべてをもってしても、キリスト教は堅く立ち、この世に勝利している。これこそ、キリスト教が生きた、霊魂を満たす真実の宗教であることを示す実質的証拠である。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P386

 

「あなた方はわたしの証人になる」。主は「わたしの説教師になれ」とはいわず、「わたしの証人」といわれました。キリストの証人にならずに、大説教師、雄弁な話し手になることは可能です。また、説教師や弁論家にならずとも、偉大な生きたキリストの証人になることも可能です。真のキリスト者は、かりに説教師になることができなくとも、誰もがキリストの証人になることができます。口先だけの証人ではなく、生き方を通しての証人です。