啓示

 

1.神についての啓示

2.神は幻の中に言われた

3.主は啓示を護られる

4.真理が『聖言』により意味されているため、啓示がことごとく意味され

5.洪水以前に存在した最古代教会における聖言は書かれた聖言ではなくて、その教会に属している凡ゆる者に啓示された

6.認識から発する啓示

7.予言者たちは啓示の意味するところを知らなかった

8.人間は他生に存在する事柄は啓示によらなくては知らない

9.啓示が無いならば、神の概念を持つことは不可能

10.これらの啓示は天界から発している、と言われようが、または主から発している、と言われようが、それは同じこと

 

 

 

 

1.神についての啓示

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P364

 

例えば、英語を母国語とする子供に梵語の神という語を教えるとき、「イシュバラは神の意味だ」といってきかせるが、語る前から、神という言葉の含みは、言葉の頭の中に入っている。こうした考えはどこからくるのか。三重苦のヘレン・ケラーは、神という言葉を知る以前から神を知っていた。このような知識は直接的な啓示によるものなのである。

 

 

黙示録講解963[]

 

神の御名を、すなわち、聖言の聖さを、軽べつにより斥けることまたは何らかの冒涜により冒涜することから遠ざかる者は、宗教を持っており、その遠ざかる状態の在るがままに、その者の宗教も在るのである。なぜならたれ一人啓示からでなくては宗教を持たず、私たちにあっては啓示は聖言であるからである。聖言の聖さを冒涜することから遠ざかることは心情から発しなくてはならず、単に口から発してはならないのである。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P201

‘88・4・30

 

♡♡ イエス?

 

私です、私は啓示を ヴァッスーラ あなたの上にみことばを刻んでいる者、私を理解するように 自らを私と一致させなさい。 気も狂わんばかりに愛する私から 被造物よ あなたは身を退いているではないか、我が聖所には反逆が侵入し 離散を引き起こしている ♡

 

 

2.神は幻の中に言われた

 

天界の秘義6000

 

「神は夜の幻の中にイスラエルに言われた」(創世記46・2)。これは、明確でない啓示を意味していることは、『神は幻の中に言われた』の意義から明白であり、それは啓示である。なぜなら啓示は夢か、夜の幻か、日中の幻か、人間の中の言葉か、目に見える天使から告げられる人間の外の言葉か、また目に見えない天使から告げられる人間の外の言葉か、その何れかにより為されたからである。この凡てのものにより聖言では色々な種類の啓示が意味されており、『夜の幻』により明確でない啓示が意味されている。なぜなら『夜』は明確でないものを意味し(1712,2514番を参照)、明確でないものはその霊的な意義では真理が明らかでない、ということである。

 

 

3.主は啓示を護られる

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P29

‘89・10・31

 

我が子よ、人類にたいする神の愛を邪魔できるものはないでしょう、あなたが迫害され、不安に苛まれ、攻撃されたとしても、賢明に振舞い 神に従いなさい。神に選ばれた者たちを非難する権利は誰にもありません。 神による他のすべての啓示を護っているように この啓示も護ります。

 

 

4.真理が『聖言』により意味されているため、啓示がことごとく意味され

 

天界の秘義2894

 

 ヨハネの書に以下のように記されている―

 

(ヨハネ1・1−5、14)。

 

 僅かな者しか『聖言』によりここに意味されていることを知ってはいない。それが主であることは幾多の事項から明白である、が、内意は『聖言』により意味されているものは神的な人間的なものの方面の主であることを教えている。なぜなら以下のように言われているからである。『聖言は肉となり、私たちのうちに住まわれた、私たちはその栄光を見た』。神的な人間的なものが『聖言』により意味されているため、諸天界における主の王国と地上における主の教会のうちに在って、主に関係し、主から発しているところの真理がことごとくまた意味されている。そこから『かれのうちに生命が在り、生命は人間の光であって、光は暗黒の中に現れている』と言われているのである。真理が『聖言』により意味されているため、啓示がことごとく意味され、かくてまた聖言それ自身が、または聖書が意味されている。

 

 

5.洪水以前に存在した最古代教会における聖言は書かれた聖言ではなくて、その教会にぞくしている凡ゆる者に啓示された

 

天界の秘義2896

 

 洪水以前に存在した最古代教会における聖言は書かれた聖言ではなくて、その教会にぞくしている凡ゆる者に啓示されたのである。なぜならかれらは天的な人たちであり、それで天使たちのように善と真理とを認識し(さらにかれらはその天使たちとも交わってもいたのであるが、)、それでかれらは聖言をその心の中に記されていたのである(その事柄については、597、607、895、920、1114−1125板を参照されたい)。

 

 

6.認識から発する啓示

 

天界の秘義5121

 

啓示はことごとく主が話される手段となる天使と話すことから発するか、または認識から発しているか、その何れかである(この認識については今後述べよう)

 

 

天界の秘義5121[2]

 

啓示が認識から発しているか、または主が話される手段である天使たちと話すことを通して発するか、については、以下のことを知らなくてはならない、すなわち、善の中におり、そこから真理の中にいる者たちは、とくに主に対する愛の善の中にいる者たちは認識から啓示を得ているに反し、善の中におらず、そこから真理の中にもいない者らは、実際啓示を得はするが、それでもそれは認識から得ているのではなくて、かれらの中に聞かれる生きた声を通して、かくて主から天使たちを通して得るのである。この啓示は外なるものであるが、しかし前の啓示は内なるものである。天使たちは、とくに天的な者たちは、最古代教会の人々のように、また古代教会の若干の者たちのように、また認識から啓示を得ているが、しかし現今ではほとんど何人もそこからこれを得てはおらず、反って非常に多くの者は、善の中にいない者ですらも、認識なしに言葉から、また幻または夢により啓示を得ているのである。

 

 

7.予言者たちは啓示の意味するところを知らなかった

 

天界の秘義5121[3]

 

 そうしたものがユダヤ教会の予言者たちの啓示の大半であった。かれらは声を聞き、幻を見、夢をみたが、認識を何ら持っていなかったため、それらはその意味するところを何ら認識していない口頭の、また可視的な啓示にすぎなかったのである。なぜなら純粋な認識は主から天界を通して来て、知性を霊的に感動させ、それを明らかに導いて、事柄が実際あるがままに考えさせ、それとともに内なる同意も伴っているのである―たとえその同意の源泉は知られてはいないものの、その同意を伴っているのである。

 

 

 

 

8.人間は他生に存在する事柄は啓示によらなくては知らない

 

 

天界の秘義7502〔4〕

 

それが実情であることは何人も啓示によらなくては知ることは出来ないのである、なぜなら人間は他生に存在する事柄は啓示によらなくては知らないのであり、また人間は聖言から信仰に属した諸真理と諸善とを探求しようとは殆ど願っていないため(なぜなら人間は真理を真理自身のために、ましてや生命〔生活〕のためには、何ら愛していないからである)、それでこうした事柄は彼に啓示されていないからであるが、それでもそれは聖言の内意には示されているのである(しかもそれは連続したものと経過との各々の方面でも示されているのである)。それで教会の人間は聖言から真理を知ろうとする情愛を何ら持ってはおらず、ただ世的な理由から、自分自身の教会の教義的な事柄が真であるか、誤っているかを確認しようとする情愛しか持っていないため、彼は死後の状態については何事も全く知らないし、天界についても何事も知らないし、地獄についても何事も知らないし、人間のもとに何が天界を作るかを、また何が地獄を作るかを知りさえもしていないのである。否、人間は甚だしく無知であるため、たれでも天界へ入れられることが出来、或る者はその者がその者自身に僭取している力により、天界へ入れられることが出来、或る者は、自分はいかような生活を送っているにしても、主の慈悲により天界へ入れられることが出来ると、教えもし、信じもしていて、殆どだれ一人、天界は人間にはその者が世に生きている間に送る仁慈と信仰の生活〔生命〕により与えられ、この生命は存続することを知ってはいないのである。こうした事柄を言ったのは信仰のみを告白して、信仰の生活を顧みない教会のそうした人間の性質を明らかにするためである、なぜならこうした者が、ここの、また以下の記事のエジプト人により表象されている者らであるからである。

 

 

 

天界の秘義8635

 

 何人も新しい生命に、即ち、霊的生命に属した事柄を知らない限り、再生することは出来ない、なぜなら人間は再生によってこの生命の中へ導入されるからである。新しい生命に、または霊的な生命に属した事柄は、信じられなくてはならない幾多の真理であり、行われなくてはならない幾多の善であり、前のものは信仰の事柄であり、後のものは仁慈の事柄である。

 

 

 

天界の秘義8636

 

 何人も自分自身からはこれらの事柄を知ることは出来ない、なぜなら人間は自分の感覚に明らかである事柄のみしか把握しないのであり、そうした事柄から彼は自然的な光と呼ばれている光を自らのために得て、その光によっては、世と自分自身とに属している事柄のみしか見ておらず、天界と神とに属した事柄は見てはいないのであり、そうした事柄は啓示から学ばなくてはならないからである。

 

 

 

天界の秘義8637

 

 例えば、永遠から神であられた主は人類を救うために世に来られたことを、主は天と地の一切の権能を持たれていることを、信仰の凡ゆるものと仁慈の凡ゆるものとは、かくて真理と善との凡ゆるものは主から発していることを、天界が在ることを、地獄が在ることを、人間は永遠に生きるのであって、もし良く行動したなら、天界の中に、悪く行動したなら、地獄の中に生きることを彼は啓示から学ばなくてはならないのである。

 

 

 

 

9.啓示が無いならば、神の概念を持つことは不可能

 

 

真の基督教11

 

第一の理由は啓示が無いならば、神の概念を持つことは不可能であり、従って神を認めることは不可能であり、而して主に関する概念とそこから生まれるところの、「神の完全性は尽く身体を作して主の中に宿る」という認識は、凡ての啓示の冠である聖言に由らない限り得られないということである。何故なら与えられた啓示の助けによって人間は神に近づき、流入を受け、かくて自然的から霊的になることが出来るからである。原始的啓示は全世界に遍く拡まっていたが、然しそれは自然的な人間によって歪められ、そこから宗教的論争、紛争、異端、分離が生じた。第二の理由は自然的な人間は神については何事をも知ることが出来ないということである。即ち彼は単に世を知り、現世の知識を利用し得るのみである。それ故、自然的な人間は霊的な人間に対立し、両者は互いに抗争するということが基督教会の教理である。

 

 

 

真の基督教22

 

 神は凡ての物が由って以て存在し、現存し、存在と顕示と呼ばれるところの真の自己、唯一者、最初のものであることは、自然的な人間にとってはその理性によっては到底発見することは出来ない。何故なら、彼の最年少期から自然的な物以外の物は彼の生活の中へ入らなかったため、自然的なものは彼の生命に和合しており、彼はその理性によって自然的な物以外の物を把握することが出来ないからである。然し人間は死後生き、他界の霊的存在者の間に住むべきものである。そのため霊的になるように造られている以上、神は聖言を与え、それによって自らを啓示し給うたのみでなく、また天界と地獄が在り、且つ凡ての人間は各々愛と信仰とに応じてその何れかに永遠に存在し続けるという事実を啓示し給うたのである。彼はまた聖言の中に自らは「我在り」であり、または存在、真の自己、唯一者であり、それ故、凡ての物の太初の起源であることを啓示し給うた。この啓示によって、自然的な人間が自然の上に登り、かくして自らの上に登って、神の属性を見ることが出来るのである。が、而も尚、神は各人の近くに在すけれど、人はこれを謂わば遠くから見るに過ぎない。何故なら、彼は各人の中にその本質とともに在すからである。この理由から、また彼は彼を愛する者の近くに在し、而して彼の戒命に従って生活し、彼を信じる者は彼を愛し、これらの者が謂わば彼を見るのである。何故なら、信仰とは神の存在を霊的に認識するということ以外に何であろうか

 

 

 

真の基督教273

 

「聖言なくしては人間は神につき、天界、地獄、死後の生活、或いは主につき何事をも知らない。」人間は神の存在、天界、地獄、その他聖言によって教えられる凡てのものを聖言なくして知ることが出来ると、強硬に主張する人々がある。彼らは聖言を信じないで、ただ単に、彼ら自身を信ずるに過ぎない故、聖言によって彼らと論ずることは無益であり、自然的な理性の光に訴えなくてはならぬ。

 

 

 

 

10.これらの啓示は天界から発している、と言われようが、または主から発している、と言われようが、それは同じこと

 

 

黙示録講解8

 

『遣わすこと』が啓示することであることは天界から遣わされるものはことごとく啓示であるためである。

 

 

 

黙示録講解8

 

これらの啓示は天界から発している、と言われようが、または主から発している、と言われようが、それは同じことである。なぜなら天使たちのもとに在る主の神的なものが天界を構成しており、天使たちの「固有性」(自己性、または天使たち自身のもの)から発しているものが天界を構成しており、天使たちの「固有性」(自己性、または天使たち自身のもの)から発しているものは何一つ、いかようなものであれ、天界を構成はしないからである。