軽蔑されることを喜ぶ

 

 

1.聖書

2.トマス・ア・ケンピス

3.ジャン・マリ・ヴィアンネ

4.ヴァスーラ

5.マザー・テレサ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇119・71

 

卑しめられたのはわたしのために良いことでした。

わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。

 

 

シラ書2・4−5

身にふりかかる艱難は、すべて甘受せよ。

たとえ屈辱を受けても、我慢せよ。

金は火で精錬され

人は屈辱のかまどで陶冶され、

 神に受け入れられる。

 

 

マタイ5・11,12

 

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

 

ルカ6・22,23

 

 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 

 

ルカ6.26

 

 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。

 

 

ルカ6・27

 

 しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

 

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・2・1

 

 本当に自分を知る人は、必ず自分をつまらぬ者と考えて、他人にほめられることを喜ばない。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・2

 

はずかしめられて、その自分の心の痛みよりも相手の悪意を悲しみ、進んで反対する者のために祈り、心からその不正をゆるし、他人のゆるしをねがうことを躊躇せず、怒りよりもあわれみの情を起しやすく、しばしばきびしく自分を抑え、肉体をまったく霊魂に従わせようと努める忍耐強い人は、大きい、ためになる煉獄の浄めをこうむっているのである。

 いま罪を清め、悪を根絶やしにすることは、未来の清めの時までこれをそのままにしておくよりもはるかにまさっている。

 まことに私たちはむやみに肉体を愛して、自分をあざむいているのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・9

 

 十字架を担い、十字架を愛し、肉を懲らしてこれを征服し、栄誉をさけ、甘んじて恥辱(はずかしめ)を忍び、自分をつまらぬ者と思い、人にもそう思われることを望み、すべての不幸と損害とをこらえ、この世の栄華をねがわないこと、これは人間にはできぬことである。

 

 自分で自分を観察して見よ、これらのうちの一つも、あなたは自分の力ではできまい。

 しかしもし主にお頼りするならば、あなたは天からの力を与えられ、この世と肉とはあなたの支配にしたがうようになるだろう。

 もし信仰で武装し、キリストの十字架の印をつけられるならば、あなたは敵なる悪魔を恐れぬだろう。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・7・2

 

 自分の住居を天にこしらえた者は、この世では貧しく、みじめな境遇のうちに捨ておかれた。これはかれらが卑しい貧しい者とされ、自分の翼で飛ぼうとせず、信頼をもってわたしの翼の下に隠れることを学ぶためであった。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・7・3

 

 経験者の言葉を信じないで、自分の意見ばかりに従い、あくまで自説を捨てないならば、その結果はなはだ危険である。

 自分を賢いと心得ている人が、謙遜に他人の指図を受けるなどということはめったにない。

 

 あまり学問がなく、理解力に乏しくても、謙遜であれば、知識の宝を多く有してうぬぼれている人よりもずっとよい。

 誇ることのできるものは、たくさん持つよりも少なく持つ方が、あなたのためによい。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・7・4

 

 こういう試練はあなたにとって、万事意のままにうまく行くよりも、よほどためになる。

 なんとなれば、人の功績(いさおし)を定めるのは、黙示や慰めを多く受けたということではなく、聖書に詳しいということでもなく、高い地位にのぼったということでもなく、ただ真の謙遜を土台とし、神への愛に満たされ、つねにひたすら神のみ光栄(さかえ)のみを求め、自分を無視し、真に自分を軽んじ、他人に尊敬されるよりも、むしろ軽蔑侮辱されるほうを喜びとするということだからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・13・3

 

自我を抑える熱心に燃え立ち、心の中(うち)に高ぶる思いを少しでも持っていてはならぬ。

 かえって卑しい者、小さい者たる実を示して、すべての人に自分の上を踏み歩かれ、街路(みち)の上の糞土のごとくふみにじられるようにすべきである。

 むなしい者よ、あなたになんの不平を鳴らすことがあるのか?

 あさましい罪びとよ、あなたはかようにしばしば神に背き、いくたび地獄におとされても文句の言えない身でありながら、あなたを責める人々に対して、どう言いわけをすることができるのか?

 けれども、それをわたしが大目に見ていたのは、あなたの霊魂がわたしの前に貴重なものであったからで、またあなたがわたしの愛を認め、わたしの恵みを絶えず感謝し、いつも真の服従と謙遜とに甘んじ、自分が軽蔑されるのを、忍耐するようになるためである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・15・4

私が、世のいっさいの物に死し、主のため、この世で軽んじられ、認められぬことを喜びとするようにして下さい。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・22・4

 

 しかもかれらは不平を言わずに世を渡り、謙遜、純真で、何の悪意も詐欺(いつわり)もなかったので、主の「み名のために恥辱を受けるに足る者とされれば喜び」(使徒行録5・41)、世人の忌み嫌うものを深い愛をもって迎えたのであります。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・22・5

 

ゆえに主を愛し、主のおん恵みを認めている人々には、主のみ旨と永遠の計画が成就されることより喜ばしいことは外にあるはずがありません。

 

 そういう人はそれによって満足し、慰めを受けるので、他人がもっとも大なる者になろうと望むように、もっとも小なる者となろうとし、他人が上席に着いて安心満足するように、末席に着いて安心満足し、他人が世間で、敬われ偉い者となろうとするように、名も誉れもなく、軽んじられ貶められるのを喜ぶのであります。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・411

 

わたしの子よ、あなたは他人が敬い尊ばれ、自分が軽んじ蔑まれるのをみても、気にかけてはならぬ。

 天にいる私に向かってあなたの心をあげよ、そうすれば地上の人に軽蔑されるのを、悲しむようなことはなくなるだろう。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・46・2

 

 しかしもっとよく自分の心の内を探ってみよ、そうすればあなたは、世間というものと、人の気に入りたいというむなしい望みとが、まだ自分のうちに生きていることに気がつくだろう。

 なんとなれば、あなたが自分の欠点のためにさげすまれ、恥ずかしめられることを喜ばないうちは、あなたがほんとうに謙遜でもなければ、ほんとうに世に死してもおらず、世もまたあなたに対して十字架に付けられていないことは、明らかであるからである。

 しかしわたしの言葉に耳を傾けよ、そうすればあなたは人々の千万の言葉も気にかけなくなるだろう。

 見よ、人間が悪意で思いつくことのできる、あらんかぎりの悪口雑言をあなたに対して浴びせかけたとしても、もしあなたがそれを聞き流して、わら一本ほどにも思わぬなら、なんの害をあなたに与えることができよう? あなたから頭髪(かみのけ)一筋抜き取ることすらできないではないか?

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・50・3−5

 

かれはしばらくの間軽蔑され、侮辱され、人の目には落ちぶれ、艱難辛苦にもまれるでしょう。しかしそれも新たな光の曙に主とともに復活して、天上の光栄に浴するためであります。

 

 ああ聖なるおん父よ、主はこのようにお定めになり、このようにお望みになりました。そして主のお命じになった通りになったのであります。

 

なんとなれば、主を愛するためにこの世で苦しみ悩むのは、たといいくたびであろうとも、まただれによってであろうとも、みな主のお許可(ゆるし)があってそうなるのであって、これは主の友に対する一つのお恩恵(めぐみ)なのであります。

 

 主のご計画とみ摂理とがなく、原因なくして地上に行われることは一つもありません。

 

「ああ主よ、主がわたしを恥ずかしめくじきたもうのはよいことであります。それによって私は主のみ掟を学ぶことができ」(詩篇119・71)、また心のあらゆる高慢と僭越とをなげうつことができるからであります。

 

 「恥ずかしさに顔をかくす」(詩篇43・15)のは私のためになります。それによって私は人からよりもむしろ主から、自分の慰めを求めるようになるからであります。

 

私は主に感謝いたします。というのは、私の罪を容赦せず、手きびしい鞭撻を加えて私を懲らし、内部(うち)にも外部(そと)にも苦痛を与え、患難をおくだしになったことに対してであります。

 

 

 

 

3.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

聖ヴィアンネの精神P200

 

しかし、うわべだけの信者は何も忍耐しようとしません。あらゆる事に心を乱されるのです。棘のある言葉でむくいます。私共は激しているときには、憎しみの言葉を吐き出します。私共の心は恨みに充ちた貯蔵庫です。私共は、いつも最も近い者に対して、この恨みを吐き出そうとしているのです。

 

自己愛が、当然受けるべきものは称賛だけだと私共に思い込ませるのです。ところが、当然受くべきものは侮辱であって、私共はこの侮辱だけを探し求めなければならないのです・・・しかし、皆さんは申されるでしょう。「私には罪はない。こんな仕打ちを受ける筈はない」と。昨日したことでは、そんな仕打ちを受ける筈はないでしょう。しかし、他の罪のために、そういった仕打ちを受けるのです。その罪の償いをさせて下さる神様に感謝しなくてはなりません。

 

 

 

 

4.ヴァスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/9巻P229

 

それからもう一つ付け加えたいのは、人に誉められて感じる霊魂の苦痛がだんだん耐えがたくなり、しばしば途方にくれ、我を忘れるほどでした。ある人が師なる神のみことばよりも私のほうに焦点を当てていると察するだけで、私をいっそう引きこもらせました。

 

神の愛に さらに身を深く寄せて。時おり受けるこうした特殊な注目は 私の目に、吐き出した汚物のようでした・・・・世間や人びととの関わりで どんなことに気を散らそうと、それは愛の抱擁から私を引き離すような悪影響を及ぼし得ると 神は今やいっそうはっきり示しておられました。私がとどまっていたいと願う 愛の抱擁から。

 

 

 

 

5.マザー・テレサ

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P181

 

 私が死んだ後、神が私よりもっと無知で無能な人をお見つけになったら、その人を通して、より偉大なことをなさることでしょう。なぜなら、今私がしていることは、神がしていらっしゃることなのですから。