獣の数字666
(黙示録13・18)
1.スウェーデンボルグ
2.聖母から司祭へ
3.ヴァッスーラ
1.スウェーデンボルグ
黙示録講解847
「そしてその者の数は六百六十六である」(黙示録13・18)は、にも拘らずその性質は凡ゆる誤謬とそこから発する凡ゆる悪の綜合体から発している、を意味している。このことは以下から明白である、すなわち、『数』の意義は生命から分離した信仰の性質であり、また『六百六十六』の意義は凡ゆる誤謬とそこから発する凡ゆる悪の総合体である。このことがその数の意義であるのは、『六』は凡ゆるものを意味し、真理について、そこから発する善について述べられ、その反対の意味においては誤謬とそこから発する悪について述べられているためである。なぜならその数は二と三とを共にかけ合わせた数から構成され、二の数は善について述べられ、反対の意味においては悪について述べられ、三の数は真理について、その反対の意味においては誤謬について述べられ、合成数はそれを構成している単純数と同じような意義を持っているからである。それでこれが『六』は凡ゆる真理とそこから発する凡ゆる善との綜合体を意味し、その反対の意味においては、凡ゆる誤謬とそこから発する凡ゆる悪との綜合体を意味している理由である。この凡てのことが充分に意味されるためにその数は三重倍にされ、三重倍により六六六の数が起こっている。なぜなら三重倍にされた物は初めから終わり迄完全になったものを、充分になったものを意味するからである。それでここではそれは真理と善とは何であれ何一つ残っていないことを意味している。
[2]聖言においては数はことごとく物事または状態に属している何ごとかを意味しており、その性質はそれに附加されている数により決定されていることは前に見ることができよう(203、429、574、841番)。小さな数から構成されている大きな数は、その大きな数が、掛け合わされることにより起っている小さな、単純な数と類似した意義を持っていることは前に見ることができよう(430番)、かくて六百六十六の数は六と同じような意義を持っており、六は、三と二とを掛け合わせて起っているが、その三と二と同じような意義を持っている。三は充分なものを、完全になったものを、全部集まったものを初めから終りに至る凡ゆる物を意味し、真理と誤謬とについて述べられていることは前に見ることができよう(533番)、二も同様に善と悪とについて述べられている(532番の終り)。さらに、六は十二と類似した意義を持っているのは、十二は三に四を掛け合わせることから起っているためであり、四は、二のように、善について、また悪について言われているためである。このことから『人間の数字』であると言われている『六百六十六』の数は、また理知の事柄であると言われている。『数える』は、善い業から分離した信仰の性質を意味しており、それは凡ゆる誤謬とそこから発した凡ゆる悪の総合体であることを意味している。その数を算えることは理知の事柄であると言われていることは、その数の意義を知り、または見つけ出すことは理知の事柄であることを意味しないで、生命から分離した信仰の性質を作り上げている誤謬と悪とを詮索し、認めることが理知の事柄であることを意味している。
[3]かの信仰の性質は誤謬の方面ではそうしたものであることは間もなく以下につづいて述べられることの中に認められるであろう。それはまた悪の方面ではそうしたものであるのは、善い業が傍らにとりよけられるときは(善い業は義認または救いに何一つ貢献しないと信じられるとき、善い業は傍らにとりよけられるのであるが)悪い業がそれに代ることがつづいて起ってくるのである、なぜなら人間は善か、悪か、その何れかの中にいなくてはならないからである。人間はその両方の中に同時にいつことはできないことは主の以下の御言葉により意味されている―
たれ一人二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方の者を憎むか、他方の者を愛するか、するのである。あなたらは神とマンモンに仕えることはできない(マタイ6・24)。
それ故凡ゆる悪の総合体は、生命の善である善い業を傍らにとりのける信仰からつづいて生まれてくるのである。さらに宗教はことごとく生命をその目的としている、なぜならそれは避けなくてはならないいくたの悪を教え、行わなくてはならないいくたの善を教えるからである。生命[生活]を目的としない宗教は、従って宗教は―その中では生命の業は無価値であり、信仰のみが価値があると教えられているが、そうした宗教は―宗教と呼ばれることはできないのであり、このことが教えられている所では、信仰のみが生命の悪をことごとくおおいかくし、赦し、取り去るからには、それらが民法により禁じられ、抑制されていない限り、それらは許されてはいないか。それがそうであることは以下から認めることができよう、すなわち、信仰のみが生命[生活]を義とすると言われてはいるものの、人間は生命のいかような善によっても救われるのではない、また人間は死の最後の時間においてすらも、この信仰により救われることができよう、また人間はこの信仰を受け入れるその同じ瞬間にも義とされる、といった他の事柄が教えられているのであり、それらは共になって、生命[生活]はかの宗教の目的ではないことを説きつけるのである。もし宗教が生命[生活]をその目的としないなら、それは凡ゆる種類の悪をほしいままにさせることが生まれてくるのである。
[4]教義においても生命においてもかの信仰の中にいる者らは、凡ゆる誤謬の総合体を持っていることは以下の主張から明らかである、この信仰は唯一の、義とし、救う信仰である、すなわち、父なる神が子なる神をつかわされたのは、十字架の受苦により、かくて堕地獄罪を取り去ることにより、人類を自らに和解させるためであったという主張である。しかしこの信仰の性質はいかようなものであるか、その中にはいかような真理と非真理とが在るかは前に示されたのであり、たれでもこの信仰の中には思考を除いては何一つなく、生命は何一つないことを認めることができよう、なぜならもしわたしたちがこのことを信頼と信任とをもって信じるなら、すなわち、もしわたしたちがそれを思考の中に承認するなら、わたしたちは救われると言われているからである。もしこの信仰のみの中に救いがあるなら、主に対する愛はいかようなものであるか、隣人に対する仁慈はいかようなものであるか、人間の生命はいかようなものであるか、生命の善と悪とはいかようなものであるか、罪の赦しとはいかようなものであるか、改良と再生とはいかようなものであるか、を知るいかような必要があるのであるか。これらの凡てはこの信仰のみではないか。罪の赦しとは何であるか、と問われるなら、その答えはこの信仰のみではないか。隣人に対する仁慈とは何であるか、と問われるなら、それはこの信仰のみではないか。教会とは何であるか、と問われるなら、それはこの信仰のみではないか。他のことにおいても同様である。それゆえ以下のことは明らかである。すなわち、この信仰のみは、竜のように、聖言の凡ゆる諸善と凡ゆる諸真理とを、かくて教会の凡ゆる諸善と諸真理とを、たとえこれらのものは無数であって、これらのものを通して天使たちはその凡ての理知と知恵とを得、人間はその救いの凡てを得てはいるものの、吸収し、飲み込んでしまっていることは明らかである。
[5]教会の凡ゆる真理と善とはこの信仰のみにより追放されているため、以下のことがつづいて生まれている、すなわち、誤謬とそこから発する悪とはそれらに代ってしまい、その結果として教会は剥奪されてしまっているのである。実に、人間は人間自身によっては善である善を何一つ行うことができないというこの真理により、教会の諸真理と諸善とはことごとく傍らに投げ棄てられており、恰もそのことが人間はそのことを行うことから遠ざかることを許されるものとしているかのようであり、そのことはもしそれらが善でないとするなら、それらはむしろ救うよりは地獄に投げこまれるものとするためである。そして誤って理解された只一つの真理を通し、教会の凡ゆる諸真理と凡ゆる善の総合体は傍らに投げ棄てられてしまっているとは驚くべきことである。このことが『その獣の数、六百六十六』によりその霊的な意味において意味されていることである。
2.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1989.6.17
―黙示録の13章にこう書いてあります、
「知恵は、ここに必要である。知恵のある者は、獣の数字をかぞえよ、それは人間の数字であってその数字は666である」と。
神の知恵の光によって照らされた知性によって、666という数字の中にかくれている人物の名を読み取ることができます。そして、この数字によって示されている名は、反キリストの数字です。
ルチフェル、昔の蛇、悪魔またはサタン、赤い龍は、今この最後の時代に反キリストとなります。
すでに使徒ヨハネは、イエズス・キリストが神であるということを否定する人は、反キリストであると断言していました。
獣をたたえて、すべての人に礼拝させるために作られた像、または偶像神は、反キリストです。それで、666という数字を計算しなさい。そうすれば、一人の人間の名が示されていることが分かるでしょう。
333という数字は、神を示しています。
ルチフェルは、傲慢のために神に背きます。自分を神の上に置きたいからです。
333は、神の奥義を示す数字です。神の上に立とうと思う人は、666の数字を持っています。従って、この数字はルチフェル、サタンの名を、つまりキリストに対立する人、反キリストの名を示しています。
333は、一度示されると、唯一の神の奥義を示しています。二度示されると、イエズス・キリストの唯一の神的ペルソナのうちに一致している神性と人性の二つを示しています。
333は、三度示されると、神のペルソナの奥義、すなわち、聖三位一体の奥義を示します。
そうすると、333という数字は、一度、二度、三度しめされると、カトリック信仰のおもな奥義を示しています。そのおもな奥義とは、
第一、神は唯一であり、三つの位格(ペルソナ)にまします。第二、私たちの主イエズス・キリストのご託身、ご受難、ご死去、そしてご復活であります。
333という数字が神を示すものであるなら、神ご自身の上に立とうと思う人は、666という数字で示されます。666という数字を一度示すと、666年を示します。 歴史のこの期間において、反キリストは、イスラムの現象を通じて自分を示します。イスラムは、三位一体の奥義と私たちの主イエズス・キリストの神性を直接否定しています。
イスラムは、その軍事的な勢力をもって、どこにでも拡がり、昔のすべてのキリスト教共同体[近東アジアの諸教会]を破壊してしまったのです。ヨーロッパにも侵入しましたが、母であるわたしの特別な干渉によって、また教皇からしきりに願われた干渉によってのみ、キリスト教を全面的に亡ぼすことに成功しなかったのです。
二度示される666は、1332年を示しています。この歴史的な期間において、反キリストは、神のみことばに対する信仰への、根本的な攻撃によってあらわれます。
哲学者は、学問、また理性に、排他的な価値を与えはじめるので、少しづつ人間の知恵だけを真理の唯一の基準とするようになります。こうして、哲学的な多くの大謬説が生まれ、何世紀にもわたって今日に至っています。真理の排他的な基準として理性を過大に重要視したために、やむなく神のみことばに対する信仰が破壊されてしまったのです。
事実、プロテスタントの改革をもって、神の啓示の源泉としての聖伝を排斥し、聖書のみを認めるようになりました。しかも、聖書さえも理性によって解釈すべきだと主張するようになりました。こうして、キリストから信仰の遺産を守る使命をまかせられた位階教会の、真正な教導職を頑固に拒否するようになりました。
その結果として、誰でも自分の個人的な解釈で聖書を読み、理解してもよいということになりました。
こうなれば、神のみことばに対する信仰は破壊されてしまいます。
この同じ歴史的な期間において、反キリストの影響によって、教会が分裂するようになりました。その結果として、多くの新しいキリスト教教会が生じてきて、これらは、しだいに神のみことばに対する真の信仰をますます失うようになったのです。
三度示される666という数字は1998年を示しています。
この歴史的な期間において、一般のフリーメーソンは、教会的フリーメーソンに助けられて、その大計画を成功させることができるでしょう。それは、すなわち、キリストとその教会の代わりに置き換える偶像神を作ることです。
偽りのキリストと、偽りの教会、従って、地上のすべての人々から礼拝されるために作られ、売り買いしようとするすべての人に自分のしるしをつける第一の獣を称えるための像は、反キリストの像です。こうして、あなたたちは、清めと、大きな艱難と、多くの棄教の絶頂にまで達したのです。棄教は、凡ゆる所に広がるでしょう。なぜなら、およそ殆どの人が偽りのキリストと、偽りの教会とに従うようになるからです。そしてその時に反キリストとなる人自身のために戸が開かれるでしょう。
最愛の子らよ、わたしが、今あなたたちが生きているこの時代に関して黙示録に書かれていることについて、はっきりしたことを示そうと思ったのはこのためです。すなわち、あなたたちの天の母と、暴れ回っている悪のすべての力との間に交わされる大きな戦いの最も苦しい決定的なことい、わたしと一緒に、あなたたちを備えさせるためです。
頑張るのですよ、わたしの小さな子らよ、強くなりなさい。あなたたちは、反対と戦いと迫害とを耐え忍びながら、このむずかしい数年の間、特にキリストとその教会とに忠実を尽くす使命があります。
そしてあなたたちは、最後に、反キリストの巨大な力と戦い、これに打ち勝つ使命を持つ小さな群れの貴重な部分であるのです。
わたしは、あなたたちを養成し、守り、祝福します。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P102
‘92・7・20
私の花よ、私 イエスはあなたを祝福し 我が平安を与える ♡ 私は聖なる者なるがゆえ 皆も聖い生き方をするようにと はじめの時から求めてきた。 我が王国を嗣ぐために生き方を変えてほしいと、最愛の子たちよ、あなた方に求めてきた。 最高の権限を与えられた天使たちが 私に反旗をひるがえし 堕落がそのうちの最も優れた者たちを支配した時、私の義は 彼らを容赦しなかった、彼らは審判の日を待つために 下界に突き落とされた。 まさにすべての目を前にして 彼らも裁きを受ける。 ああ!・・・それは何と恐ろしい光景となるか! 私は一人ひとりをその行いによって そして行わなかったことによって裁く。 我が玉座の前ですべての者は 畏れつつ沈黙して立とう 至高の判事である私を前に 皆が恐怖におののくほど この最後の審判の日はまことに恐ろしいがゆえ。 あなた方皆は 天国から追放されて痛恨と悔しさから大天使ミカエル およびその配下の天使たちと戦ったおびただしい数の堕天使たちに 会うであろう。 そう、あなた方の目は 私のライバルを見ることになる、聖なる者、油注がれた者のライバルを。 あなた方は皆 あらゆる堕天使に、ルシフェルの手下どもに、私の息子や娘たちをすっかり道に迷わせようとした原罪の蛇に 会うことになろう ♡ あなた方は 私の名を冒涜し 我が掟に違反した数知れない者たちに会うだろう、私の聖性に育てられて養われるのを拒み 欺く者から額に刻印されるほうを選んだ者たちに(*)。・・・
*ここでは、審判の日に神の玉座の前に立つ、この数知れない堕天使たちのヴィジョンをいただきました。畏れ多い、悲しい光景でした。
そう、ヴァッスーラ、あなたはきわめて苛酷なヴィジョンを見た。 言っておく: ほどなく私は聖人たちを伴い この世への審判と 罪人への判決を下しに訪れる。 私の日が来る前に あなた方皆を我が聖霊によって新にし 私の掟を思い起こさせようと 今日は我が恵みを 人類すべてに現している。 私の日には 各人にふさわしい報いを与えよう。 恵みの霊を侮辱し 我が霊を愚かなものとして扱う者は 厳しく罰する。 それゆえ あなた方は目覚めていなければならない。 今日は今まで以上に あなた方、家族と国ぐにを 私ども二人の心に奉献するようにと 私は願う。 あなた方の額に 我が聖霊の封印をさせてほしい。 より分ける時が来た、今や清算する時。 盗人のように皆を訪れると 言ってきた、私が戻る時は 誰も全く予想すらしていないであろう。 その時、二人の男性のうち一人は取り去られ、一人は残されよう、二人の女性のうち一人は取り去られ、一人は残されよう、収穫を借り入れる準備は ほとんど整った そして:
「私はここです!」
と言った時 数え切れない死骸が残されていよう。 その時 私は我が天使に言う(*):
*
マタイ福音書13・24−30に言及。
「私のものでない者たちをより分け 引き抜く時がきた、私を認めた者たちと、我が掟に従うのを拒んだ者たちを より分けなさい、我が聖霊が道案内し 松明となるのを許し 歓迎した者たちと、私に背教し 歯向かったすべての者たちを より分けなさい(*)、仔羊の封印が額に押されている者たちと、獣の名が あるいは666の数字がある者たちを より分けなさい。」
*
この箇所は聖パウロが時の終わりを預言している2テサロニケ書2・1−12を再確認しています。時の終わりを示す二つのしるしは: 大反乱(背教)と反逆者(反逆の霊)です。