頑な

 

 

天界の秘義7032

 

「わたしは彼の心を頑なにしよう、それで彼はその民を去らせないでしょう」。これは頑迷を、そのため未だ解放されないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『頑なにすること』の意義は頑迷であり、『心』の意義は意志であり(2930、3888番を参照)、かくてこれらの言葉により意志から発した頑迷が意味され、従って悪を為す歓喜から発した頑迷が意味されており―なぜなら意志に属したものは歓ばしいものであり、そのことは愛から発しているからである―『民を去らせないこと』の意義は進んで自由にしようとしない頑迷であり、かくて未だ解放されないことである。ここにまた以下の記事に『エホバはパロの心を頑なにされた』と言われている。このことは外観から、また神的なものが凡ゆる物を為されるという普通の考えからそのように言われているのであるが、しかしこれは悪とか怒りとか、狂憤とか、剥奪とか、そういったものがエホバまたは主に帰せられている時と同じように理解されなくてはならないのである(2447、6071、6991、6997番を参照)。

 

 

天界の秘義7032〔2〕

 

 誤謬とそこから派生してくる悪の中におり、また悪とそこから派生してくる誤謬の中にいる者らの頑迷さについては、その頑迷は言葉では表現出来ないものであることを知られたい、なぜなら彼らは甚だしい刑罰とそこから起ってくる恐怖によらなくては決して断念しないからであり、彼らの生命の歓喜は悪を為すことであるため、勧告も威嚇も全く何の効果ももたらしはしないからである。彼らはこの歓喜を世におけるその生命の間に、特に彼らが自分自身のみを愛して隣人を愛さないし、かくて基督教の仁慈を何ら持たなかったという事実から得たのである。こうした種類の人々は主から導かれることに堪えることが出来ないため、遺伝により、また実際の生活により悪であるところの、彼ら自身の意志から行動しており、自分自身の意志から行動する者らは愛から悪を為すのである、なぜなら意志から発するものは愛から発しており、愛から彼らは悪を為す歓喜を得、そしてこの歓喜の中に止まるに応じて、頑迷の中にも止まるからである。

 

 

天界の秘義7032〔3〕

 

 それがそうしたものであることは世では現れていないのは、世では彼らは自己への愛と世への愛とにより抑制されているためである、なぜならもし彼らが悪を公然と行おうとすると、世評を悪くし、その結果利得と名誉を失ってしまうことを恐れるからである。更に法律が、また生命を失う恐れが彼らを抑制しているが、もしこうしたものに妨害されないと、彼らは彼に与しない者には凡て襲い掛かって、これを滅ぼし、その凡ての財産を掠奪し、たれでも無慈悲に殺害しようとするのである。人間は内的にはそうしたものである、即ち、この世ではいかほどそうしたものではないように見えるにしても、その霊の方面ではそうしたものである。このことは他生の彼らから非常に明らかに見ることが出来るのである、なぜならその時世ではそうした者であった者らから外なるものが取り去られて、彼らはその意志に委ねられ、かくてその愛に委ねられ、そうしたものに委ねられると、彼らには悪を為すこと以上に歓ばしいものは何一つ無くなり、またその悪を、前に言ったように、刑罰によらなくては、後には幾度も地獄へ沈められなくては決して断念しない程の頑迷さをもって行うからである。この凡てから隣人に対する仁慈を何ら抱いていない人間はいかような者になるかを見ることが出来よう、また各人の生命がその者を待っていることを、(即ち)世では外なるものであり、外面的なものであった社会的な生命がその者を待ってはいないで、内なるものであって、外には現れなかった霊的な生命がその者を待っていることを見ることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義9818[6]

 

 モーセの書には―

 

  神エホバはヘシボンの王シホンの霊をさらに悪くされ、その心を頑にされた(申命記2・30)。

 

 この記事でもまた『霊』と『心』とは二つの生命を意味し、その生命は真理と善とを理解しようとする意志もなく、またそれらを行おうとする意志もないときは、『頑なになる』と言われている。エゼキエル書には―

 

 心はすべて溶け、手は凡て垂れ、霊はことごとくしめつけられるであろう(21・7)。

 

 ここでも意味は似ている。イザヤ書には―

 

  地上の民に魂を、その中を歩む者に霊を与えられるエホバ(42・5)。

 

『民に魂を与えること』は信仰の生命を与えることを意味し(『魂[霊魂]』が信仰の生命を意味していうことについては、9050番を参照)、『霊を与えること』は真理の理解を意味している。さらに―

 

 わたしの魂をもってわたしはあなたを求めまつった、わたしの真中にわたしの霊をもってわたしはあなたを朝に待ち望みまつった(イザヤ26・9)。

 

ここでも意味は類似している。