貸す

 

 

1.聖書

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

申命記24・10−13

 

あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。

 

 

 

天界の秘義9213[4]

 

さらに―

申命記24・10−13引用あり

 

貸主は『外に立ち、担保をその者のもとへ持ってこなくてはならない』ことは、伝達された真理にいかように応答しなくてはならないかを意味しているのである、なぜなら『貸すこと』により真理を伝達することが意味され、『担保を取ること』によりその応答が意味されているからである。たれ一人こうした事柄が意味されていることを他生に起る事によらなくては、引いては『家に入ること』により意味されていることをまた『外に立つこと』により意味されていることを知らなくては、かくて『外にもってくること』により意味されていることを知らなくては知ることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義9213[5]

 

他生では他の者の家に入って、室で共に話し合う者たちはそこにいる凡ての者たちにその思いを伝えると、その凡ての者たちは自分自身が自分自身からその思いを考えているとしか絶対に考えはしないのである。しかしもし彼らが外に立っているなら、その思いは実際認められはするが、しかし他の者から来るものとして認められて、自分自身から来るものとしては認められはしないのである。このことは日々他生に起っており、それで意見を同じくしている者たちは、または感情を同じくしている者たちは、一つの家の中の中に共に現れるが、もし彼らがその家の一室に現れるなら、その意見、または感情の一致は更に強くなり、この同じ人物が一致しないときは、一致しない者たちは見えなくなってしまうのである。他生ではこのように現れることが至る所に見られ、また絶えず起っているのである。その理由は考えることが似ていることによって連結もし、現れもするということである、なぜなら考えることが内なる視覚であって、そこの場所の距離は世におけるようなものではないからである。

 

 

 

天界の秘義9213[6]

 

このことから『家へ入らないで、外に立って、担保を取ること』により意味されていることが明らかである、即ち、人はその者自身の真理を確認する

ように他の者を拘束したり、または刺激したりしてはならないのであり、その他の者の言葉を聞き、その者の答えをそれがその者自身の中に在るがままに知らなくてはならないのである。なぜなら他の者を拘束し、刺激して自分自身の真理を確認させる者は、その他の者をその者自身から考えたり、話したりはさせないで、自分から考えさせ、話させるからである。そしてたれでも他の者から考え、話すときは、その者が持っている諸真理は混乱してしまい、しかもその者は未だそうした真理を知っていない者の場合を除いては、匡正はされないのである。この凡てから聖言の細目の各々には霊界に存在している事柄に相応した事柄が在ることが再び明らかとなるのである。