樫の木
天界の秘義1443
『モレの樫の木の杜』が最初の認識であることについては、実情は以下のごとくである。人間には理知的なものと合理的なものと記憶のものとがあり、人間の最も内なるものは理知的なものであり、人間の内的なものは合理的なものであり、人間の外的なものは記憶のものであり、これらはすべて人間の霊的なものであって、ここに述べられた順序[秩序]をもって存在している。天的な人の理知的なものは凡ゆる種類の木の庭園にたとえられ、その合理的なものはレバノンにあったような香柏やそれに類した木の森にたとえられているが、しかしかれの記憶知は樫の木の杜にたとえられており、このことは樫の木の枝のようなその絡み合った枝から来ているのである。木そのものによっては認識が意味されており、例えば東の方のエデンの園の木により(前の99,100,103番に示したように)、最も内なる認識が、または理知的なものの認識が意味され、レバノンの森の木により、内的な認識が、または合理的なものの認識が意味されているが、しかし樫の木の杜により外的な認識がまたは外なる人にぞくした記憶知の認識が意味されているのである。ここから『モレの樫の木の杜』は主の最初の認識を意味している、なぜなら主は未だ子供であられ、その霊的なものはそれ以上に内的なものではなかったからである。さらに、モレの樫の木の杜はイスラエルの子孫もまた、かれらがヨルダンを渡って、カナンの地を見た時、最初に来た所にあったのであり、そのことについてはモーセの書に以下のように記されている―
あなたはゲリジム山に祝福を、エバル山には呪いをおかなくてはならない。それらはヨルダンの彼方に、ギルガルに向って野に住んでいるカナン人の地の中に、陽の沈む道の後に、モレの樫の木の杜のそばにあるのではないか(申命記1・29,30)。
このことからもまた認識の最初のものが意味されている、なぜならイスラエルの子孫が(その地)に入ることは忠実な者が主の王国へ入ることを表象しているからである。