狩る

 

 

 

天界の秘義1178

 

「かれはエホバの前に狩ることに力があった。」これはかれが多くの者を説きつけたことを意味していることは、仁慈から分離した信仰はそのようなものであることから、また聖言の『狩ること』の意義からも明白である。仁慈から分離した信仰は人間が容易に説きつけられるような性質を持っている。人類の大部分は内なるものとは何であるかを知っていないで、ただ外なるものを知っているに過ぎないのであり、大半の人間は感覚と快楽と欲念の事柄との中にとどまっていて、自分自身と世とを顧慮しており、それ故このような宗教に容易に捕らわれるのである。聖言の『狩ること』の意義から明らかであるのは、『狩ること』は、全般的に言って、説きつけることを意味しており、とくに、人間の心をその感覚的な性向と快楽と欲念に媚びることにより捕え、教義を用い、それをかれらがかれらの気質や他の者の気質に順応しつつかれら自身の好むままに、またかれら自身を高揚させ、豊かにもしようという目的から説明することにより―かくて説きつけることにより捕えることを意味しているためである。

 

[2]たとえばエゼキエル書にこのことが明白にされているのである―

 

  わたしの手の関節のことごとくに座ぶとんをぬいつけ、凡ゆる背丈の頭の上にベールを作って魂を狩る者には禍いあれ。おまえらはわたしの民のために魂を狩り、おまえら自身のために魂を生かしておくのか。おまえらはひとにぎりの大麦のため、またいく片かのパンのためにわたしの民の間でわたしを冒涜し、虚言に耳を傾けるわたしの民に虚言を述べて、魂を飛ばせるために用いるおまえらの座ぶとんに立ちむかって、それをおまえらの腕から引きちぎり、その魂を行かせよう、おまえらが狩って、飛ばせている魂を行かせよう、わたしはまたおまえらのベールも引きちぎって、わたしの民をおまえらの手から解き放とう、かれらはかさねておまえらの手に陥って狩られはしないであろう(13・18)

 

 『狩ること』の意義がここに説明されている、すなわち、それは説得することにより捕えることであり、またかれらがかれら自身のために、また他の者の気質に迎合して歪曲して、解釈するいくたの知識により捕えることであることが説明されている。

 

[3]ミカ書には―

 

 慈悲のある人間は地から滅んでしまった、人間の中には正しい者は一人もいない、かれらは凡て待ち伏せて血を求めている、彼ら各々はその兄弟を網をもって狩り、手で善を為さないで悪を為している、君は報酬を求めて、そのために審判き、大いなる人間はその魂の邪しまなことを口にし、彼らはそれを歪めている(7・2、3)。

 

 ここにも同じく『狩ること』により意味されていることが説明されており、すなわち、それは自己のために待ち伏せしていることであり、または誤ったものを真と呼び、邪しまなことを語り、歪め、かくして説きつけることである。ダビデの書には―

 

 舌[言葉]の人間は地には確く立てられはしないであろう、悪は暴力をふるう人間を狩って、これをくつがえすであろう(詩篇140・11)。

 

これは誤謬により説きつけ、欺こうとして悪いことを考え、しかも優しげに語る邪悪な者について言われており、ここの『舌[言葉]』は虚偽を意味している。

 

 

天界の秘義3309[3]

 

 ここから『狩る』ことは教えることを、また説きつけることを意味しており、しかもそれが両方の意義で意味しているのである、すなわち、真理に対する情愛から、また誤謬に対する情愛から教え、説きつけることを意味しているのである。真理の情愛からは、エレミヤ記に―

 

 わたしはかれらをわたしがかれらの父祖たちに与えたその地へ連れかえるであろう、見よ、わたしは多くの漁師に使いをつかわそう、とエホバは言われる、かれらはかれらをすなどるであろう、この後わたしは多くの猟人に使いをつかわそう、かれらは凡ゆる山から、また凡ゆる岡から、岩の割れ目からかれらを狩るであろう(エレミア16・15、16)。

 

ここには『漁師』は感覚的な真理から教える者たちを意味しており(40、991番)、『猟人』は記憶知の真理から、また教義的な事柄から教える者たちを意味している。『凡ゆる山に、凡ゆる岡に』は善の情愛の中に、また真理の情愛の中にいる者たちに教えることを意味している。『山と岡』にはこうした意義があることは前に見ることができよう(795、796、1403番)。