からす
天界の秘義866
『からす』が誤謬を意味していることは、からすについて言われ、示されたことから明白である、すなわち、からすは理解に、理性に、記憶知に属した事柄を意味しており、またそれに対立したものである理論と誤謬とを意味しているのである。この両方とも聖言では色々な種類の鳥により記されていて、理解の真理はおとなしい、美しい、清い鳥により、誤謬は貪欲な、醜悪な、不潔な鳥により記され、何れの場合でも真理の、または誤謬の種類に従って変化しているのである。粗雑な、甚だしい誤謬はふくろとからすにより記されているが、それがふくろにより記されているのは、ふくろは夜の暗黒の中に生きているためであり、からすにより記されているのは、からすは黒い色をしているためである。例えばイザヤ書には―
またふくろもからすもその中に住むであろう(34・11)
そこにはユダヤ教会が、ふくろとからすにより表象されている誤謬そのものの住居として記されているのである。
天界の秘義870
『はと』により再生することのできる者のもとにある信仰のいくたの真理と善とが意味されていることは聖言におけるはとの意義から、とくにイエスが洗礼を受けられたとき、その上に降ったはとの意義から明白であり、それについては以下のように記されている―
イエスは洗礼を受けられたとき、すぐに水から出られた 見よ、天は開かれて、かれは神の霊がはとのように降ってかれの上に来るのを見られた(マタイ3・16、またヨハネ1・32、ルカ3・21、22、マルコ1・10、11)。
ここでは『はと』は信仰の聖いもの以外には何ごとも意味しておらず、『洗礼』それ自身は再生以外には何ごとをも意味してはおらず、かくて起こらねばならなかった新しい教会の中では、主から再生により受けられる信仰の真理と善とが意味されたのである。類似の事柄が、いくたの記事から明らかであるように、ユダヤ教会の生けにえとはん祭のためにささげられた若いはと、またはやまばとにより表象され、意味されたのであり、そのことについてレビ記を参照されたい(1・14−終り、5・7−10、12・6、8,14・21、22、15・14、29、30、民数記6・10,11、ルカ2・22−24)。それらにはこのような意義があることは、たれでもそれらは何かを表象しているにちがいないと考えるのみで悟ることができよう、なぜならもしそうでないなら、それらは無意味であって、いかような点でも神的なものではなくなるからである、なぜなら教会の外なるものは生命をもたないものであるが、しかしそれは内なるものから生きており、内なるものは主から生きているからである。
[2]『はと』は全般的に信仰の知的なものを意味していることもまた予言者の書の中に明白である、例えばホゼヤ書には―
エフライムは心がなく愚かなはとのようになるであろう、彼らはエジプトを呼んだ、彼らはアッシリヤへ行った(7・11)。
さらに、エフライムについては―
彼らはエジプトからきた鳥のように、アッシリヤの地から来たはとのように、恐れるであろう(11・11)。
ここでは『エフライム』は理知的な者を、『エジプト』は知識を持っている者を、『アッシリヤ』は合理的な者を、『はと』は信仰の知的なものに属したものを意味しており、ここにもまた霊的な教会の再生が主題となっている。さらにダビデの書には―
ああエホバよ、あなたのやまばとの魂を野生の獣にわたしたもうな(74・19)。
ここでは『野生の獣』は仁慈を何ら持たない者を、『やまばとの魂』は信仰の生命を意味している。鳥について前に言われ、示されたことをまた参照されたい、すなわち、鳥は知的な事柄を意味しており、優しい、美しい、清い、有益な[有用な]鳥は知的な諸真理と諸善を意味しているが、しかしここでははとに対立しているからすといった凶暴な、醜悪な、不潔な、無益な鳥はそれに対立したものを、すなわち、誤謬を意味しているのである。