身体・動作

 

 

 

 

1.頭

3.ひざまづく

8.スウェーデンボルグは目

15.皮膚

16.首

17.胸

19.病気

20.骨

21.血

22.動作

24.子宮

25.生殖器官

26.繊維、神経

27.反芻胃

28.糞

29.出かけて行く

30.乳房

31.作法

32.人間の身体も霊魂により発生し、存続しており

33.人間はその身体を是が非でも大切にしなくてはならない

34.天に向って手をひろげることは祈願に相応している

35.人間には、多くの無数の物が存在しているが、しかも依然彼はその凡てを一つのものとして感じている

 

 

 

 

9巻.巨大人 3741−3750、心臓、肺臓 3883―3896

 

10巻.大脳、小脳 4039−4055、巨大人 4218−4228

 

11巻.感覚全般 4318−4335、目、光 4403−4421、目、光4523−4534、匂い、鼻孔4622−4634、聴覚、耳4652−4660

 

12巻.味覚、舌、顔4791−4806、手、腕、足、腰4931−4953

 

13巻.腰、生殖器官5050−5062、内臓5171−5190

 

14巻.内臓5377−5396、皮膚、髪、骨 5552−5573、病気 5711−5727

 

 

 

 

 

 

 

 

1.頭

 

 

黙示録解説47

 

『頭』・・・知恵、愛。知恵の愛。

 

 

 

 

3.ひざまづく

 

天界の秘義4724

 

このことをまた信仰のみのためにたたかって、信仰の生活を送っていない者らはその者ら自身の中に消滅させていまうのである。なぜならかれらは主の人間的なものは純粋に人間的なものであって、他の人間の人間的なもの[人間性]に似ていなくはないと信じており、そこからかれらの多くの者はいかほど主をその唇で告白しても、主の神的なものを否定しているからである。

しかし、ひざまづいて、けんそんな心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖さんにおいてもまたそのように考えはしないのである。ここからかれらのもとでは主の神的な人間的なものがかれらの心の中に在ることが明らかである。

 

 

 

8.スウェーデンボルグは目

天界の秘義4627

わたしたちはあなたのもとにある天使的ないくつかの社会を見ますが、

 

かれらは自分たちはこのようにしてその天使の社会は目の領域のものであることを認めますと言った。

 

 

 

 

15.皮膚

 

天界の秘義1385

 

 皮膚の領域に、とくに垢のついた皮膚の領域に属して、凡ゆる事柄について論じようと欲する霊どもがおり、彼らは善で真のものを何ら認識しておらず、実に論じれば論じるほど益々認識しなくなり、彼らは知恵を理論から成立させ、その上に立って賢い者として見られることを要求しているのである。彼らは物事が善であり真であるか否かを論じないで認識することが天使の知恵であると告げられているが、そうした認識が可能であることを悟ってはいない。こうした者らは身体の生命の中で知識と哲学に属した事柄によって真理と善とを混乱させ、そのことによって自分自身に自分はこの上もなく学があるものであると思われている者であるが、しかし彼らは依然聖言から真理の如何ような原理をも取り入れていなかったため、たれにもまさって常識を欠いているのである。

 

 

天界の秘義5556

 

爪の根の皮膚を構成している者

 

この皮膚は他のどの皮膚よりも感覚が鈍いのである、なぜならそれはほとんどうすい軟骨のようなものである薄片で一面におおわれているからである。それを構成している社会は、凡ゆる事柄についてそれはそうであるか、そうでないかと論じるのみで、それ以上進まない者らである、わたしはかれらと語ったとき、かれらは何が真であるか、また何が真でないかをいささかも悟らないで、論じれば論じるほど、ますます悟らなくなることを認めることができたのである。それでもかれらはかれら自身には他の者らよりも賢明であるように見えるのである、なぜならかれらは知恵を論じる能力においているからである。かれらは、知恵の主要な事柄は物事がそうであるか、またはそうでないかを論じることなしに認めることであることを全く知らないのである。このような多くの者は世では哲学的に細かい区別立てをして善と真理とを混乱させてこのような者となり、そのため常識に劣るものとなってしまった者らから来ているのである。

 

 

19.病気

 

世界は精神的に病気ですので、その肉体も病んでいます。(中略)

エイズの病人たち皆に向かって言います。主なる神様は非常に遺憾に思っておられますので、あなた方の罪の武器そのものによってあなた方を罰されているのです。これはおん父の正義のもっとも明らかな代表となるしるしです。我が子の杯はすでに溢れるばかりで、その果てしない憐れみは終わりをつげようとしています。(デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P160)

 

不潔のもっとも重大な罪さえも正当化するたくさんの司祭たちと、何人かの司教たちが示している放任的な態度は、どれほどイエズスの神的み心を苦しめていることでしょう。ちょうどここに、この聖なる場所で、この恐るべき悪徳に堕落しているわたしの多くのあわれな子らが歓迎され、自然に反する不潔の罪を歩みつづけてよいと、公にはげまされたことが、イエズスのみ心を軽蔑し傷つけ、侮蔑したのです。

自然に反する不潔な行為は、神のみ前で復讐を要求する罪です。これらの罪は、あなたたちと、あなたたちの国々のうえに、神の正義の火を呼びよせずにはいません。

 神はモイゼに与えられた「姦淫するな」の第六戒は、今でもその価値を完全に保っているのです。堕落した、そして、邪悪に流れたこの世代にあってなお、これを守らねばならないことを、はっきりと、しかも勇気をもって、すべての人に宣言する時が来ました。

この種の罪を正当化するすべての牧者は、自分の上、そのいのちの上に神の正義の燃える火を呼ぶのです。(聖母から司祭へ/1987.6.2/米国ワシントン州シアトル市にて)

 

20.骨

エゼキエル37

枯れた骨の復活

 

天界の秘義149[]

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P201

 

天界の秘義149[]

人間自身のものは、天界から見られると、全く骨張った、生命の無い、極めて醜い物のように見え、従ってそれ自身では死んだものとして見えるが、しかし主によって生かされると肉のように見えるのである。

 

 

 

21.血

天界の秘義4751

血は聖い真理を意味している。(4735番)

 

22.動作

 

天界の秘義2153

 

すべて内的な情愛はそれに相応した動作を外面のまたは身体の動きの中にもっており、その動作はそれを生み出す原因としての情愛の結果であるように、自己を卑しくする情愛には卑下が伴っており、また平伏すことも伴っているのである。

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P93

 

 私にとって幸せというものは、内的な深い平和を意味しています。それは私たちのまなざし、顔、態度、身振り、キビキビとした動作とに表わされます。

 

 

24.子宮

天界の秘義5054

幼児たちを極めてやさしく愛している者たちは、例えば、このような母たちは、子宮とその周囲の器官の領域の中に、すなわち、子宮の狭窄部と卵巣との領域におり、そこにいる者たちは極めて甘美な、柔和な生命の中におり、他の者にもまさって天界の喜びの中に生きているのである。

 

25.生殖器官

天界の秘義5053

 両性の生殖にあてられている部分と器官の一切のものが相応している天界の社会が存在している。これらの社会は、丁度人間のこの領域が他の領域から全く明確に区別され、分離しているように、他のものから明確に区別されている。これらの社会が天的なものである理由は、婚姻愛は凡ての愛の中でも根元的な愛であるということである(686,2733、2737、2738番)。それはまた用の点で他のものにまさっており、従って歓喜の点でもまさっているのである、なぜなら結婚は全人類の苗代であり、また主の天国の苗代であるからである、なぜなら天界は人類から発するからである。

 

天界の秘義5055

いく多の生殖器官にぞくしているその天界の社会はいかようなものであり、またいかような性質を持っているかは、わたしは知ることを許されなかった。なぜならそれらは低い領域の中にいる者によって把握されるには余りにも内的なものであるからである。それらはこれらの器官の用に関係しており、その用は、以下の理由のため(それもまた摂理から発しているが)、かくれており、認識することはできないのである、すなわち、こうしたものは、それ自身においては極めて天界的なものであるが、こうした器官をただ口にするのみで極めて多くの人間の中にかきたてられるところの好色、淫行、姦淫の汚れたいくたの思いにより害われないためである。そうした理由のためわたしはわたしの見たさらに迂遠なものを若干述べてみよう。

 

26.繊維、神経

神の愛19(黙示録講解第12巻P130)

このように人間の意志の自発的な活動の一切は人間における生きた努力であり、それはせんいと神経とにより究極的なものの中に働き、せんいと神経とはそれ自身においては不断の努力以外の何ものでもなく、その不断の努力は頭脳内における初まりのものから身体の部分における究極的なものにすら至る迄も続いており、その究極的なものに至って努力は行為となるのである。

 

 

27.反芻胃

黙示録講解242イ(4)

このことは反芻胃と呼ばれている鳥と地の獣との胃との比較により説明することができよう。これらのものの中へかれらは先ずその食物を集め、後で徐々にそれを取り出して、食べ、かくて血液を養い、食物はかくてかれらの生命の一部となるのである。

 

人間のもとでは記憶はこれらの胃に相応しており、人間は、霊的なものであるため、こうしたものに代って記憶を与えられており、その中へ知識であるところの霊的な食物を集め、後で一種の反芻によりそれらを取り出すのであり、すなわち、考え、意志することにより取り出して、それらを己がものとし、かくてそれらをかれの生命の一部とするのである。

 

つまらないものではあるものの、こうした比較から、知識は、それを考え、意志する[欲する]ことにより生命の中に植えつけられない限り、反芻胃の中に不消化のままに残り、そこで腐敗してしまうか、また吐き出されてしまうかする食物のようなものとなってしまうのである。

 

さらに人間の生命のサークルは知ること、理解すること、欲すること、行うことである、なぜなら人間の霊的生命は知ることで始まり、次に理解へ移行し、次に意志することへ、最後には行うことへ移行することである。

 

このことから、知識は記憶の中に在る限り、それは単に生命の入口に在るにすぎないのであり、それが行為の中に存在しない中は人間の中には充分に存在しないのであり、それが充分に行為となって存在するに応じて益々充分に理解と意志との中に存在するのである。

 

 

28.糞

 

仁慈の教義202

 

主は悪い人間をその人間自身のために、また世のために善を行うように刺激されることができるが、しかしそのときでも主はその人間の悪の中へ流れ入られはしないで、その周囲に、その人間の円周の中へ流れ入られ、かくてその者の外なるものの中へ―その人間はその外なるものにより善として見えるように願っているのであるが、その外なるものの中へ―流れ入られるのである。

 

それでこの善は、それが善であるかぎり、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金をかぶせた糞であり、それは純金以外のものであるとはほとんど信じられはしないものの、臭覚の鋭い鼻孔のもとへもってこられると、その汚臭が認められたのである。

 

 

天界の秘義1594[]

 

それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。

 

かれがそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使がかれが服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、かれが自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞のやまの上を飛んでいるはえが自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。

 

それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛のいくたの欲念から後退して、自分自身を忌みきらうのである。かれがそのことを為すに応じて、かれは主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・13・3

 

自我を抑える熱心に燃え立ち、心の中(うち)に高ぶる思いを少しでも持っていてはならぬ。

 かえって卑しい者、小さい者たる実を示して、すべての人に自分の上を踏み歩かれ、街路(みち)の上の糞土のごとくふみにじられるようにすべきである。

 むなしい者よ、あなたになんの不平を鳴らすことがあるのか?

 あさましい罪びとよ、あなたはかようにしばしば神に背き、いくたび地獄におとされても文句の言えない身でありながら、あなたを責める人々に対して、どう言いわけをすることができるのか?

 けれども、それをわたしが大目に見ていたのは、あなたの霊魂がわたしの前に貴重なものであったからで、またあなたがわたしの愛を認め、わたしの恵みを絶えず感謝し、いつも真の服従と謙遜とに甘んじ、自分が軽蔑されるのを、忍耐するようになるためである。

 

 

29.出かけて行く

 

天界の秘義7437

『出かけて行くこと』の意義は悪から誤謬にすすむ思いであり―なぜなら悪の中にいる者らが悪から誤謬を考えるときは、かれらは『出かけて行く』と言われるからである、なぜなら悪は意志にぞくしているため、それは最も内なるものであり、誤謬はその外側にあるからである、それは誤謬は理解にぞくし、従って思考にぞくしているためである、こうしたことが『出て行くこと』の霊的意義に意味されており、またマルコ7・21−23のように、悪い意志から発した悪い行為も意味されており、『水』の意義は真理であり、その対立した意義では誤謬であり(739、790、2702、3058、3424、4676、5668番を参照)、またパロがそのもとへ出かけて行こうとしているエジプトの川の水は誤謬を意味しているためである(7307番)。

 

 

天界の秘義7439[]

この凡てのことから今や以下のことを認めることができよう、すなわち、イスラエル人とユダヤ人とは決して選ばれたのではなくて、ただ天界にぞくする事柄を表象するためにのみ受け入れられたのであり、そしてそのことはカナンの地で為されなくてはならなかったのである、なぜなら主の教会は最古代からもそこに存在して、そのため、そこの場所は凡て天界的な、神的な事柄を表象するものとなっていたからである。このようにしてまた聖言は書かれることができたのであり、またその中の名は主とその王国にぞくする事柄を意味することができたのである。

 

 

 

30.乳房

 

天界の秘義9325

 

『乳房』が善と真理との情愛を意味していることも6432番に見ることができよう。従って『ひからびた乳房』は何ら情愛がないことを意味し、それに代わって歪曲する悪い欲望を意味している。

 

 

31.作法

 

天界の秘義788

 

 『ノア』は古代教会そのものではなく、前に言ったように、その教会の両親、または種子のようなものであった。『ノア』は『セム、ハム、ヤペテ』とともになって古代教会を構成し、それが最古代教会のすぐ後につづいたのである。『ノア』と呼ばれた教会の人間はことごとく最古代教会の子孫であって、それで、遺伝悪については、死滅したその子孫の他の者らの状態とほとんど同じ状態にいたのであり、こうした状態にいた者は、遺伝によりこのような特質を受けなかった者のようには再生し、霊的なものにされることはできなかったのである。かれらの遺伝的な性質のいかようなものであったかは、前に述べられたところである(310番)。

 

[2]例えば(その事がさらに明らかに理解されるために)ユダヤ人のように、ヤコブの子孫に属した者らは異邦人が再生することができる程には良く再生することはできないのである、なぜならかれらは幼少の頃から吸収し、後になって確認した原理からのみでなく、また遺伝的な性向[気質]からも、信仰に対し先天的な[内在的な]反感[対立]を持っているからである。これもまた遺伝的な性向から内在していることは、かれらが他の人々とは異なった資質を持ち、異なった作法を持ち、また異なった容ぼうを持ち、それにより他の者から区別され、こうした特徴を遺伝から持っていることから或る程度明らかとなるであろう。内的な性質も同様である、なぜなら作法と容貌は内部の象徴であるからである。それ故回心したユダヤ人は他の者にもまして真理と誤謬の間を動揺している。『ノア』と呼ばれた古代教会の最初の人々も最古代教会の種族と子孫とに属していたため、同様であった。これらがここに、また以下の記事に記されている動揺である、すなわちノアは農夫であり、ぶどう畠を作り、ぶどう酒を飲み、酔って、裸になって天幕の中に臥していたのである(9・20、21)。かれらが僅かしかいなかったことは、かの教会の人間が霊たちの世界で、間取りの小さな部屋の中に、白い着物を着た、丈の高いほっそりとした人間として表象されたという事実から明らかにされたのである。しかも信仰の教義的な事柄を己が間に維持し、持っていたものはかれらであったのである。

 

 

32.人間の身体も霊魂により発生し、存続しており

 

天界の秘義1807[]

 

空と地上におけるあらゆるものが表象的なものである理由はそれらのものは主が天界を通して流入されることから発生してきたのであり、また絶えず発生しており、すなわち、存続しているということである。これらのものも人間の身体と変わりがなく、人間の身体も霊魂により発生し、存続しており、そうした理由から身体のあらゆるものは全般的にも個別的にも霊魂を表象しているのである。霊魂は用と目的の中に存在しているが、身体はその用と目的とを遂行するものである。結果はすべて、それが如何ようなものであっても、同じように原因である用を表象しているものであり、用は第一原理にぞくしている目的を表象するものである。

 

 

33.人間はその身体を是が非でも大切にしなくてはならない

 

天界の秘義5949[2]

 

 この間の実情は身体とその霊魂に似ているのである。人間はその身体を是が非でも大切にしなくてはならない。例えばそれに栄養を与え、着物を着せ、世の歓びを楽しませるように、大切にしなくてはならないが、しかしこの凡ても身体のためではなくて、霊魂のためになされるのであり、すなわち、霊魂が健全な身体の中に相応的にまた正当に活動し、身体を霊魂に全く従順な器官として得るためになされなくてはならないのである。かくて霊魂が目的とならなくてはならないのである。それでも霊魂もまた目的となってはならず、間接的な目的とならなくてはならないのであり、それを、その人間はその霊魂自身のためではなくて、それが両方の世界で遂行しなくてはならない幾多の用のために、かえりみなくてはならないのであり、人間が用を目的とするとき、主を目的とするのである。なぜなら主は用のために事物を処理され、用そのものを処理されるからである。

 

 

34.天に向って手をひろげることは祈願に相応している

 

天界の秘義7596

 

「わたしはエホバに向って私のたなごころをひろげましょう」。これは執成すことを意味していることは、『エホバにたなごころをひろげること』、即ち、祈願することの意義から明白であり、それは執成しである(祈願については、7396、7462、7591番を参照)、なぜなら祈願することは口、または言葉に属しており、たなごころをひろげることは心の祈願に相応しているところの身振りまたは行為に属しているからである。心の凡ゆる情愛に相応している身体の身振り、または行為がある、例えば跪くことは卑下に、地にひれ伏すことは更に深い卑下に相応しているが、しかし天に向って手をひろげることは祈願に相応しているといった如くである。こうした身振り、または行為は、聖言ではその相応している情愛そのものを意味しているが、それは動作は情愛を表象しているためである。このことから表象しているものの何であるかを認めることが出来よう。

 

 

 

 

35.人間には、多くの無数の物が存在しているが、しかも依然彼はその凡てを一つのものとして感じている

 

 

神の愛と知恵22

 

神人の中には無限な物は区別を持った一つのものであることも、また人間からそれを鏡として、見ることが出来よう。人間には、前述したように、多くの無数の物が存在しているが、しかも依然彼はその凡てを一つのものとして感じている。彼は、頭脳、心臓、肺臓、肝臓、脾臓、膵臓については、または眼、耳、舌、胃、生殖器その他の部分の中の無数の物については何事も知覚して知っておらず、また彼はこれらの物を何一つ知覚して知っていないために、彼は彼自身に対しては一人のものとして存在している。その理由は凡てこれらの物は一つも欠けることは出来ないような形を以て存在しているということである。何故ならそれは(前述の4−6に示されたように)神人から生命を受ける形であるから。凡ての物がこのような形を以て秩序づけられ、関連しているということから、それらのものは多数でもなく、無数でもなく、一つのものであるかのような感情が生まれ、その感情からそのような考えも生まれているのである。