身体の復活
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P216
「わたしは最初であり、最後である」(黙示録1・17)
体において、考えられないほど美しく栄光化されたイエズスは、地球にいた時と違っており、違っていない。違っているのは、この世でいかに美しく、威厳があり、完全であろうとも、栄光化されたあらゆる体がもつ威厳と完璧さを帯びることは出来ないからだ。違っていないのは、肉の栄光化は人格の特徴を変質させないからだ。それゆえ体の復活では、背の高い者は背が高く、痩せている者は痩せており、逞しい人は逞しく、ブロンドの人はブロンド、茶髪の人は茶髪、などなどであろう。だが不完全さは消え去るだろう。神の国においては、もし人間が罪と死と、あらゆる類の苦しみ、病気、人間同士の憎しみをそこに持ち込まなければ、地上の楽園でそう定められていたように、すべては美、純潔、健康、生命だからだ。
地上の楽園は、栄光化された体をもつ者たちによって住まわれる天上の楽園の物質的な相似であった。地上の楽園の本来の外観は、天上の楽園、すなわち永遠の王国にもあるだろうが、それは超自然化されたかたちでそこにあるだろう。アダムの住まいを照らすために、神によって創造された諸々の光、太陽、月、星々には、永遠の太陽(黙示録21・23)が、雅な、いとも清かな月が、はたまた数知れぬ星々が取って替わるだろう。すなわち月を台にして天の最も美しい星々を冠に戴くマリアを、その光で包む神・光が、またその無原罪の純潔をもってサタンに勝った、星の名をもつ女マリア(黙示録12・1)が、はたまた、正しい人たちに繋がれて(マタイ13・43)、神の輝き、新しい天の星々となった聖人たちが取って替わるだろう。また、地上の楽園を潤していた河は、これによって人類を罪から洗浄し、諸徳を積ませ、育てるために肥沃にし、その創造主に喜ばれるに足るものとする手段を象徴していたが、この河には、そこから神の血の河が、堕落した人類の罪を洗い、肥沃にし、神に嘉されるものにするために湧き出す十字架のように、四本の支流があったが、それには、神の都を流れ、神と子羊の玉座から湧き出す生きた水の河が取って替わるだろう(黙示録22・1)。そして生命の木、これもまた、真の生命を失った者に再びそれを与えた木を象徴する。すなわち、そこから生命を与える至聖なる果実が枝から垂れ下がっていたし、真の死に至らせる自我のすべての病に効く薬がもたらされた十字架には、黙示録(22・2)中に言われている『川の両岸』に立つ木々が取って替わるだろう。
すべての不完全さは消えるだろう、とわたしは言った。天のエルサレムの住人はすでに完徳に到達し、もう堕落することはありえない―なぜなら神の都には、未だ不浄な罪人は入ることは出来ないし、不浄、嫌悪感、嘘を吐きだす者はそこに入ることは出来ないから―彼らにはどんな類の不完全さもない。感知しうる楽園に押し入ることの出来る大誘惑者も、天の楽園に忍び込むことは出来ない。その反逆により、すでに天から地獄に落下したルシフェル(イザヤ書14・12−15)は、新しい天と新しい地が到来する前の、世の終わりに埋葬され『無』に帰するだろう。最早行動することも、あらゆる試練とあらゆる浄化を経て主のうちに生きている者を、痛い目に遭わせることも危害を加えることも出来ないからだ。
したがって、霊魂や知的能力にはいかなる欠点も不完全さも最早存続しないだろう。放縦な生活によって自ら招いたものであれ、苦痛、苦難となっていた身体的不完全さも消え失せるだろう。神の子らの栄光化された体は、もし人間が、神に創造された通りに十全のままでいたら彼を形造る三部分において、すべてにおいてそうであったように完全なものであろう。