観念

 

1.人間の思考の観念はことごとくその人間の映像となっている

2.感覚的なものから発した何かの外観が取り去られると、観念は消失してしまう

3.世的なものから発している観念[考え]がなくては人間は何事も些かも考えることはできない

4.人間は自分自身のものから得ているか、または自分自身の中にその事柄をのぞきこんでそこから自分自身で得ているかしているものだけを他の者たちから受け入れるに過ぎない

5.観念が存在しないなら、理解は不可能

6.全般的な観念[考え]が先行しなくてはならない

 

 

1.人間の思考の観念はことごとくその人間の映像となっている

 

天界の秘義2209

 

 全般的に合理的なものについては、それが神的なものについて、とくにその合理的なもの自身の真理から考えるときは、それはこうしたものがあることを到底信じることはできないのであって、そのことはその合理的なものがそのようなものを把握しないためであり、またその合理的なものに、その合理的なものがものを考える手段ともなっているところの、感覚の迷妄[妄想、迷い]から生まれている外観が密着しているためでもあり、そのことは前に引用した例から明白であり(2198番)それに以下のものをつけ加えてさらに説明しよう。

 

 

天界の秘義2209[2]

 

合理的なものは、以下のことを、もしその合理的なものに諮るなら、信じることができようか、すなわち聖言には内意があり、この内意はすでに示したように文字の意義からは極めて遠ざかっており、それで聖言は天界を地に連結するものであり、すなわち、諸天界の主の王国を地上の主の王国に連結するものである(ということを信じることができようか)。霊魂は死後言葉を話さなくても極めて明確に互に他と話しており、しかもそれが人間が一時間も語って表現するものよりもさらに多くのものを一分以内で表現するほどにも豊かなものであり、また天使たちも同じように話し合ってはいるが、しかしそれにはさらに完全な言葉が、霊たちによっては認められない言葉が用いられていることを合理的なものは信じることができようか、また霊魂はことごとく他生に入ってくると、そのように話すことを何ら教えられはしないものの、そのように話す方法を知っているということを信じることができようか。人間の一つの情愛の中にさえも、いなその一つの溜息の中にさえも、決して表現することもできないような、それでも天使たちによっては認識されている無数のものが存在しており、人間の情愛はことごとく、いな、その思考の観念はことごとくその人間の映像となっていて、それはその中にその人間の生涯のあらゆるものが驚嘆すべき方法で含まれているものとなっていることを合理的なものは信じることができようか。巨億の数にのぼるこうしたものは言わずもがなとしよう。

 

 

2.感覚的なものから発した何かの外観が取り去られると、観念は消失してしまう

 

天界の秘義2209 [3]

 

合理的なものは、それが感覚的なものから賢明になって、その感覚的なものの迷妄に浸透しているさいには、こうしたものを考えるとき、それがそうしたものでありうることを信じはしないのである、なぜならそれはそれが内なる感覚かまたは外なる感覚かその何れかによって認めることのできるようなものによらなくては、それ自身に対してはいかような観念[考え]も形作ることができないからである、それならそれがさらに高い天的な霊的なものについて考えるときは、その場合はいかようなものになるにちがいないであろうか。なぜなら思考が(その思考のために)依存していなくてはならないところの感覚的なものから発した何かの外観が常に存在していなくてはならないのであって、この外観が取り去られると、観念は消失してしまうからであり、そのこともまた霊界に入って間もない霊たちからわたしに明白にされたのである、なぜならかれらは世から己がもとにたずさえてきた外観に最大の歓喜を覚えていて、もしこうした外観がかりにも自分たちのもとからとり去られでもするなら、自分たちはものを考えることができるか、どうかも疑わしいと言ったからである。こうしたものがそれ自身において観察されたさいの合理的なものである。

 

 

3.世的なものから発している観念[考え]がなくては人間は何事も些かも考えることはできない

 

天界の秘義2520[2]

 

 このことが情愛の熱意から、または全人類に対する愛の熱意から言われたことは明らかである。この愛が主が依然母から来ている人間的なものの中におられる間に主の思考を導いたのであり、そして主は信仰の教義が天的な起原のみから発していることを認められたけれど、それにも拘らず、人類に供えるために―なぜなら人類はその合理的なものから何らかの観念[考え]を持つことができないものは何一つ受けることができないからである―『あなたはまた義しい国民を殺そうとなさいますか』と言われたのであって、そのことにより、教義の善と真理とは消滅させられるであろうか否か、が意味されているのである。人間はその合理的なものから何らかの観念[考え]を持つことができないものは何一つ受けはしないことは、人間が神的なアルカナについて抱く観念[考え]から明白である。世的なものからまたは世的なものに類似したものから発した何らかの観念が常にその観念[考え]に密着しており、それによってそのものが記憶に保有されており、それによってそのものが思考の中に再現されるのである、なぜなら世的なものから発している観念[考え]がなくては人間は何事も些かも考えることはできないからである。それでもし神的な起原から発している諸真理が赤裸々に[そのままに]示されるならば、それは決して受け入れられはしないで、全く人間の把握を超絶してしまい、それでかれの信念をも超絶してしまうのであって、このことは外なる礼拝の中にいる者たちのもとでは極めてとくに見られるのである。

 

 

4.人間は自分自身のものから得ているか、または自分自身の中にその事柄をのぞきこんでそこから自分自身で得ているかしているものだけを他の者たちから受け入れるに過ぎない

 

天界の秘義3803

 

これらの事柄について自分自身の研究により自分自身で何らかの観念を得ていない者は、その示された記事からは何らかの観念を受けるにしてもそれもかすかなものにしかすぎないからである、なぜなら人間は自分自身のものから得ているか、または自分自身の中にその事柄をのぞきこんでそこから自分自身で得ているかしているものだけを他の者たちから受け入れるに過ぎず、その他のものは通り過ぎて去ってしまうからである。ただ善と真理には無数に互に似ているものが在って、天界の社会はそれらのものに順応しているということを知るのみで充分とされるように(85、917、2739、3612番を参照)。

 

 

5.観念が存在しないなら、理解は不可能

 

天界の秘義3825

 

なぜなら先ず各々の善について、また内的な真理の情愛について明らかな観念[考え]が存在しなくてはならないからである。さらに各々の主題を理解することは観念に順応しており、もし観念がなんら存在しないなら、理解は全く不可能であり、もし観念が明確でないなら、理解も明確でなく、もし観念が歪められているなら、理解も歪められており、もし観念が明らかであるなら、理解も明らかである。

 

 

6.全般的な観念[考え]が先行しなくてはならない

 

天界の秘義4269

 

なぜなら全般的な事柄が知られていないかぎり、その同じ主題の個々の事柄はいかような光の中へも落ち込むことはできないで、日蔭の中へ落ち込んでしまうからである。全般的な観念[考え]が先行しなくてはならないのであり、そうしたものがないかぎり、個々のものはその入って行くことができるいかような宿泊所も見出さないのである。日蔭のみしか存在しない宿泊所では、それらは見られはしないし、誤謬がある宿泊所では、斥けられるか、窒息させられるか、または歪められるかしてしまい、悪が在る所では、愚弄されるのである。