果実

 

 

 

1.実を結ぶ

2.熟れる

3.サンダー・シング

 

 

 

 

1.実を結ぶ

 

 

天界の秘義5355

 

「なぜなら神はわたしに非常に実をむすばせられたからである」。これはその結果善から真理が増大したことを意味していることは、『非常に実をむすばせること』の意義から明白であり、それは増大することであり、すなわち、善から真理が増大することである、なぜなら『非常に実をむすぶこと』は善について述べられ、『増大すること』は真理について述べられるからである(43、55、913、983、1940、2846、2847番)。ここから言語では『エフライム』は非常に実をむすぶことから名づけられ、その性質は『なぜなら神はわたしに苦しみの地で非常に実を結ばせられたからである』という言葉に含まれているのである。この性質は善から真理が自然的なものの中で受けた試練の後でその自然的なものの中に増大したということである。善から真理が増大することの何であるかをかんたんに述べよう。人間が善の中にいると、すなわち、隣人に対する愛にいるときは、また真理の愛[真理を愛する愛]の中におり、従ってかれはこの善の中にいるに応じて、真理に感動するのである、なぜなら霊魂がその身体の中に存在しているように、善は真理の中に存在しているからである。それゆえ善は真理を増大させるにつれ、善自身を繁殖させるのであり、もしそれが純粋な仁慈の善であるなら、それはそれ自身を真理の中に、また真理によって限りなく繁殖させるのである、なぜなら善にはまたは真理には制限はないからである。無限なる者は凡ての物の中に全般的にも個別的にも存在されている、なぜならそれらの物は無限なる者から凡て発しているからである、しかしそれでも有限なものと無限な者との間には比率は存在しないため、限定されないものも無限な者には決して到達することはできないのである。現今の教会には、現今純粋な仁慈の善は全く存在していないという理由から、真理はめったに増大することはできない。その人間がその中に生まれている教会の信仰の教理を知って、それを色々な手段で確認することで充分であると信じられている。しかし純粋な仁慈の善の中にいて、そこから真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいる者はそのことに満足しないで、真理の何であるかについて聖言から明るくされることを、その真理を確認する以前にそれを見ることを願うのである。さらにかれは、真理の認識は善から発しているため、善からその真理を見る[認識する]のである。なぜなら主は善の中におられて、その認識を与えられるからである。人間がこのようにして真理を受けるとき、それは無限に増大するのである。この点ではそれは小さな種子のようなものである、なぜならそれは成長して木となり、他の小さな種子を生み出し、その種子が代って庭園を生み出しなどするからである。

 

 

 

天界の秘義5365[2]

 

 真理に対する善の必要について実情はいかようになっているかを話さなくてはならない。真理は善を必要とし、善は真理を必要としており、真理が善を必要とするときは、真理は善と連結し、善が真理を必要とする時は、善は真理と連結するのである、なぜなら善と真理との相互的な連結は、すなわち、真理の善との、善の真理との連結は天界の結婚であるからである。人間の再生の初期の段階では、真理は増大するが、善は増大しない、そして真理はそのときその連結しなくてはならない善を持たないため、自然的な心の内部の中へ引き入れられて、そこに貯えられるが、それは善が増加するに従って真理がその内部から呼び出されるためである。この状態においては真理は善を必要としており、さらに真理の善との連結は善が自然的なものの中へ流れ入るに従って起るが、しかし依然こうした連結によっては何ら実は多く結ばれはしないのである。しかし人間が再生すると、そのときは善は増加するのであり、そしてそれが増加するにつれて、それは真理を必要とし、またその連結することのできる真理をそれ自身のために得、かくして、善は真理と連結するのである。こうしたことが起ると、真理は善から、善は真理から多くの果を結ぶのである。

 

 

 

天界の秘義9337

 

愛の諸善(3146,7690)

「実を結ぶこと」・・・善が増し加わること

果実が木の主要な物であるように善が人間の主要なもの。実際、葉は最初に生じるが、果実を目的としてそのために生じるのである。目的であるものは最後のものであるのみでなく、それはまた手段の中で顧慮されている只一つのものである。かくてそれは凡ゆるものであるため、最初のものである。信仰の諸真理に対する愛の善の場合も類似している。

 

「葉のみのいちじく」マタイ21・18,19

信仰の実と呼ばれているものが信仰の主要なものであり、信仰は実がなくては、すなわち生命の善がなくては、たんに葉にすぎないのであり、かくてここで「木」により意味されている人間が実がなくて葉に満ち溢れているときは、その者は枯れて、切り倒されてしまういちじくの木となってしまう。

 

 

2.熟れる

 

天界の秘義5117

 

ここでは『房』であるところのまだうれていない実により真理が依然支配している状態が表象されているが、しかしぼどうの実であるうれた実により善が支配している状態が表象されており、善の支配はまたうれた実の中にみとめられる風味と美味により表象されているのである。

 

 

 

天界の秘義8603

 

こうした派生したものとそこから継続したものの性質は全般的に、シトロン、りんごといった果物から考えることが出来よう。その最も外なる物はそれらのものを包んでいる皮であり、内的な物は包み込まれている果肉であり、更にそれよりも内的な物は種子であって、その種子は外側をケースで包みこまれ、次に

 

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P324

 

 果実のたわわに実った木があり、木の持ち主から果実を買うなり、もらうなりしなければならないとします。あなた方は、毎日一つか二つの実を手に入れるために、出て行かなくてはなりません。しかし、木そのものを所有すれば、すべてがあなた方のものになります。主、神をわたしたちの御親(みおや)とするようにしましょう。わたしたちは、すすんで主を受け入れようとはしていません。わざわざ、ものを求める必要はありません。神は、自らを与えたいと望んでおられ、それだけが、つまりわたしたちに内住される神だけが、真実わたしたちを満たしてくださるのです。

 このような方法で生命の与え主である主に祈り、主を見出せるよう、主を見出したときに主のために生きられるよう、神がわたしたちを助けてくださいますように。