改良されないケース

 

 

 

神の摂理138

 

「何人も合理性と自主性とを欠いた状態では改良されない」。

 

 

 

神の摂理139

 

恐怖は自由と理性を、または自主性と合理性と取り去るため、何人も「恐怖の状態」にある間は改良されない。なぜなら愛するは内なる心を開くが、しかし恐怖はそれを閉じ、そしてそれが閉じられると、人間は殆ど考えることをしないで、単に低い心または感覚に示されるもののみを考えるにすぎないからである。

 

 

 

神の摂理140

 

何人も「不幸な状態」では―ただそのときのみ神を考えて、その助けを祈念するなら―改良されない、それはそのとき彼は強制された状態にいるため、自由を得ると、神については殆どまたは些かも考えなかった以前の状態に帰るからである。が、前の自由の状態で神を恐れた者は異なっている。神を恐れることにより神を怒らせる恐れ、即ち、罪により神を怒らせる恐れが意味されるが、それは恐れではなく愛である、なぜなら他を愛する者はこれに悪を為すことを恐れないか。而してその愛が深ければ深いほどその恐れも大きい。この恐れがないなら愛は味気がなく浅薄なものとなり、単に思考に属して、意志に属さない。不幸の状態により、戦争、

決闘、難船、墜落、火事、差し迫ったまあは不意な富の損失、地位の喪失、そこから起る名誉の喪失、その他そうしたときの或る危険による絶望の状態が意味される。このような境遇でのみ神を考えることは神から考えることでなく、自己から考えることである。なぜなら心はその時体内に謂わば幽閉され、それ故自由でなく、また合理性も持たず、そして自主性と合理性がないなら改良はありえないからである。

 

 

 

神の摂理141

 

「精神的な病気は合理性を奪い去り、従って理性に従って行動する自由を奪い去るため、何人もその状態では改良されない」。なぜなら心は病み、健全でなく、健全な心は合理的ではあるが、病んだ心は合理的ではないから。このような精神的な病気は気鬱症、似而非良心または誤った良心の暗示、色々な錯覚、不幸、心配または身体の病気から起る精神的な悩みである。このような悩みは時々試練として認められているが、しかしそれは誤っている、なぜなら純粋な試練では心は霊的な目的に集中して溌剌としているが、他の場合では自然的な物に集中して、混乱しているから

 

 

 

神の摂理142

 

何人も「身体が病んでいる状態」では自由でないためその状態では改良されない、なぜなら心の状態は身体の状態に依存しているから。身体が病んでいる時は、心もまた、それが世から切り離されているのみからでも病んでいる、なぜならそのように切り離された心は、実際、神について考えはするが、神からは考えないからである、なぜならそれは理性を自由に働かせないからである。人間は天界と世との中間の状態に在り、かくてその思いを天界と世から得、世について天界から考え、天界について世から考えることが出来るため、その理性を自由に働かせることが出来る。それ故人間は病んで、死と死後の己が魂の状態について考えているときは、世の中にいないで、自分自身の魂の中に隔離されており、この状態では何人も改良されることは出来ないが、もし彼がその病む以前に改良されているなら、彼の確信は強められることが出来るであろう。これは世とその務めとを棄てて、神、天界、救いにかかわる思いに自らを全く捧げる者にも言われるが、しかしこれについては他の所で更に述べよう。こうした理由から、病気以前に改良されなかった者は、死んだ場合、その以前の状態へ再び帰っていくのである。それゆえ何人でも病気中に悔改めの業を為し、または信仰を得ることが出来ると想像することは無意味である、なぜならその悔改めには生命はなく、またその信仰に仁慈はなく、二つは単に口先のものであって、心のものではないからである。

 

 

 

 

神の摂理143

 

改良は凡て真理と真理に従う生活によりなされるため、何人も「無知の状態」では改良されないし、それゆえ真理を全く知らない者は改良されることは出来ないが、しかしもし真理に対する情愛から真理を愛するなら、死後霊界で改良されるのである。

 

 

 

神の摂理144

 

「知的な盲目の状態」にいる者もまた改良されることは出来ない。これらの者もまた真理を全く知らず、従って自分の生活はいかようなものでなくてはならぬかを知らない。なぜなら理解は真理を教え、意志はそれを実践し、そして意志がそれを為すと、その生命は真理に順応するから。しかし理解が盲目になっているときは、意志もまた妨害されており、その理性に従って自由に行動する時は、理解の中に誤謬として確立されている悪以外には何物も為さない。理解は無知によるよりも盲目の信仰を教える宗教により更に盲目となり、また誤った教義により盲目となる。なぜなら真理は理解を開くように、誤謬はそれを閉じ、その上を閉じ、下を開き、下のみを開かれた理解は真理を見ることが出来ず、何であれ、その欲するものを、特に誤謬を確認することしか出来ないからである。理解はまた悪の欲念により盲目となる、即ち、意志はその欲念に支配されている限り、理解を促してその欲念を確認させ、そして悪の欲念が確認されるに応じ、その意志は善の情愛に感化されることは出来ず、その情愛から真理を認めて、改良されることは出来ない。例えば、もし誰かが姦淫を犯そうと欲するなら、その愛の歓喜にいるその意志は、理解を促して、それを正当なものとさせる、なぜならそれは以下のように言うからである、姦淫とは何か、その中には何らかの害があるか、夫と妻の間にも同じことが起らないか、子供は結婚のみでなく姦淫からも生まれることは出来ないか。なぜ女は一人以上の者を害なしに受け入れてはならぬか。霊的生活はこれと何にもの関係があるか、と。その理解はこのように考える。そのときその理解は意志の娼婦であって、意志との荒淫(こういん)により愚鈍になって、結婚愛は霊的な天界的な愛そのものであって、主と教会との愛に似た形であり、そこから発していることを認めることが出来ず、かくて結婚愛は本質的には聖く、貞潔であり、清純で無垢であり、結婚した配偶者たちはその魂の奥底から互いに愛し合って、自分自身を愛の形とするため、人間に愛の形そのものを生むが、姦淫は

この形を破壊し、それと共に主に似た形をも破壊し、語るも戦慄すべきことは、人間の生命はその精液にあるゆえ、姦淫者はその生命を夫の生命と共にその妻の中に混入することを認めることは出来ない。これは穢れているゆえ、地獄は姦淫と呼ばれ、他方天界は結婚と呼ばれる。更に姦淫の愛は最低の地獄に連なり、真の結婚愛は最内部の天界に連なっている。両性の生殖器もまた最内部の天界の共同体に相応している。これらの事実を記したのは、意志が悪の欲念により支配されるとき理解は如何に盲目となるかを示し、また何人も知的な盲目の状態では改良されることが出来ないことを示すためである。