改良の状態

 

 

1.新しい誕生の第一歩は改良と呼ばれ、それは理解にかかわり、第二は再生と呼ばれ、それは意志にかかわり、そこから内なる人が外なる人を改良する

2.改良の最初の状態

3.改良の第ニの状態

4.改良の第三の状態

5.真理に対する情愛から真理を愛するなら、死後霊界で改良される

6.世に住む限り、改良または再生の状態におかれている

 

 

 

 

1.新しい誕生の第一歩は改良と呼ばれ、それは理解にかかわり、第二は再生と呼ばれ、それは意志にかかわり、そこから内なる人が外なる人を改良する

 

 

真の基督教302

 

「その霊的な意義では」、この誡命(第3戒汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし)は、主による人間の改良と、再生とを意味している。労苦の六日間は肉とその欲情とに対する人間の争闘を意味し、また地獄から由来して彼の中にある悪と虚偽に対する人間の争闘を意味するに反し、安息日は主と人間との結合を、これによる再生を意味する。このような争闘の間に人間は霊的な労苦をなめるが、再生するときは休息に入ることは、下記の改良と再生に関わる章に、特に次の項目の下に認められるであろう。

 

(1)再生は人間が受胎し、子宮内に運ばれ、生まれ、教育される過程に似た過程をもって行われる。

(2)新しい誕生の第一歩は改良と呼ばれ、それは理解にかかわり、第二は再生と呼ばれ、それは意志にかかわり、そこから内なる人が外なる人を改良する

(3)内的なる人が先ず改良されねばならない、それから内なる人が外なる人を改良する。

(4)何故なら、その時内なる人と外なる人との間に争闘が始まり、何れであろうと征服する側が他を支配するからである。

(5)再生した人間は新しい意志と新しい理解を持つ。

 

 

 

2.改良の最初の状態

 

天界の秘義6724〔2〕

 

その事柄そのものについては―幾多の悪と誤謬とが混合している善が神的な真理を包囲していたことについては、たれ一人このことを人間の改良の実情はいかようになっているかを知らない限り、理解することは出来ないのである。人間は改良されつつある時は、彼はその内なるものの方面では主により善と真理との中に留め置かれているが、その外なるものの方面ではその幾多の悪と誤謬との中へ入れられ、従ってこうした悪と誤謬との中にいる奈落の霊らの間に置かれているのである。これらの霊は彼の周囲を徘徊し、凡ゆる手段を用いて彼を破滅させようと努力しているのである。しかし内なるものを通して流れ入ってくる善と真理とは彼を安全にしておくため、奈落の霊らは彼に些かも害を加えることは出来ない。なぜなら内部に働くものは外部に働くものよりも無限に勝っているからである。それは内的なものは、更に純粋なものであるため、外的なものの個々の微細なものの一切のものに働きかけて、外なるものを内的なものの欲するように処理するためである。しかしこの場合外なるもの中に善と真理とが―その中に内なるものから注がれる流入が固定されることが出来るが、そうした善と真理とが―存在しなくてはならないのであり、そのことにより善は幾多の悪と誤謬との間に在りつつも、尚安全であることが出来るのである。改良されつつある者は凡てこの状態に入れられ、このようにして、彼の中にある幾多の悪と誤謬は除かれ、それに代って幾多の善と真理とが挿入されるのである。

 

 

 

 

3.改良の第二の状態

 

 

天界の秘義6747

 

「で、その女はその子供を取って、それに乳を飲ませた」。これは善が教会によりその中へ徐々に注ぎ入れられたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『女』の意義は教会であり(252、253番を参照)、『乳を飲ませること』の意義は徐々に注ぎ入れることである(そのことについては、すぐ前の6745番を参照)。ここに記されているものは第二の状態であり、最初の状態は幾多の悪と誤謬との間に入れられた状態であり(6724番)、この第二の状態は教会の善を徐々に注ぎ入れられた状態である。

 

 

 

 

4.改良の第三の状態

 

 

天界の秘義6750

 

「彼女は彼をパロの娘のもとへ連れて来た」。これは記憶知に対する情愛を意味していることはパロの娘の表象から明白であり、それは宗教であるが(6729番を参照)、しかしここでは記憶知に対する情愛である。なぜなら本節で記されていることは第三の状態であり、この場合『娘』により情愛が意味され(2362、3963番)、『パロ』により全般的な記憶知が意味され(6015番)、かくて『パロの娘』により記憶知に対する情愛が意味されるからである。このことはまたその連続した事柄の内意からも明白である、なぜならモーセは律法の神的なものの方面の主を表象しているため、もしパロの娘により前のように宗教が意味されているなら、彼はパロの娘のもとへ連れて来られて、彼女の息子となる筈はなく、更に記憶知は再生しつつある者たちが先ず学ばねばならないものであるからである、それは記憶知は理解の事柄に対する面であり、理解は信仰の真理を受容する器官であり(6125番)、信仰の真理は仁慈の善を受容する器官であるためである。ここから記憶知は人間が再生しつつある時の最初の面であることを認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義6750〔2〕

 

 記憶知はまた、主がその人間的なものを神的な真理に、または神的な律法になされた時、主における最初の面であったことは、ホゼヤ書の以下の予言から、即ち、『エジプトからわたしはわたしの息子を呼び出した』(ホゼヤ11・1、マタイ2・15)から推論されるように、主が、幼児の頃、エジプトへ連れて来られ給うたことにより意味されているのである(マタイ2・13、14)。『エジプト』により記憶知が意味されていることは再三示したが、しかし記憶知により哲学の記憶知ではなく、教会の記憶知が意味されているのである(そのことについては4749、4964−4966、6004番を参照されたい)。これらが『エジプト』により、その純粋な意義で、また意味されている記憶知である。(最初の面はこれらの記憶知から形作られることについては、5901番を参照されたい。)

 

 

 

 

神の摂理83

 

 人間は再び生まれない限り神の国に入ることが出来ない理由は、人間はその両親を通して凡ゆる種類の悪を受け継いでいるが、その悪を除き去ることによって霊的なものになされることが出来、そして霊的なものにならない限り、天界に入ることは出来ないということである。自然的なものに代って霊的なものになることは再び生まれることであり、再生することである。しかし人間は如何にして再生するかを理解するためには三つの事柄を考察しなくてはならない、すなわち罪の宣告を受けている状態である人間の第一の状態の性質、改良の状態である第二の状態の性質、再生の状態である第三の状態の性質を考察しなくてはならない。

 

「人間の第一の状態または罪の宣告を受けている状態は」、凡ての人間によりその両親から受け継がれている。なぜなら彼らの子孫は自己と世への愛の中に生まれて、この愛は彼の中の凡ゆる種類の悪の源泉であるからである。彼はこれらの愛の歓喜に誘惑されて、自分が悪の中にいるという事実を知らない。なぜなら凡ての愛の歓喜は善としてのみ感じられ、それ故、人間は再生しない限り、何ものにもまさって自己と世とを愛することが善それ自身であり、他の凡ての者の富を支配し、所有することが主要な善であると考えるからである。これが彼の凡ての悪の源である。なぜなら彼は自分以外の者には何ら愛を持たず、あるいは持つにしても、それは悪魔が他の悪魔を、あるいは盗賊が他の盗賊を共に仕事をしている間のみ顧みるようなものにしかすぎないからである。これらの愛を確認し、またその愛から受ける歓喜のためにその愛から生まれる悪を確認する者は自然的な状態に止まり、形体的なものになり、感覚的なものになり、その思考、またはその霊の思いは狂ってしまうが、しかし彼らは人間であり、それゆえ合理性と自主性とを持っているため、世にいる間は、依然合理的に語り、行動することが出来るが、しかしそれは自己と世への愛から行っているのである。彼らは死後霊になると、世にいたとき、霊の中に感じた歓喜以外の歓喜を感じることは出来ない。これは地獄の愛の歓喜であり、そのときそれは、聖言に呵責、地獄の火として記されている悲惨、苦痛、恐怖に変化する。これにより、人間の最初の状態は罪の宣告を受けている状態であり、これは再生を欲しない者の状態だることが明白である。

 

「人間の第二の状態または改良の状態は」、彼が天界で受ける幸福のために、そこを考え始める状態である、このようにして彼は天界の歓喜の発する源の神を考え始めるが、最初にこの考えは自己への愛の歓喜から生まれる、なぜなら天界の歓喜は彼にはそのような歓喜を意味するからである。しかしその自己への愛の歓喜がそこから流れ出る悪の歓喜とともに彼の心を支配している限り、彼は、天界に達する手段としては、祈りを注ぎ出し、説教を聴き、聖餐に与り、貧しい者に与え、困窮した者を助け、教会のために金を費やし、病院に寄附するといったこと以外のことを考えることは出来ない。さらに人間はこの状態にいる間は、自分は、宗教の教えるところが信仰に関わるものであれ、仁慈に結合した信仰に関わるものであり、ただそれについて考えることのみにより救われるだろうと考える。彼はその歓ぶ悪について何事も考えないため、これを信じ、そして彼がその悪を歓ぶ限り悪は止まっている。この歓喜は欲念から起り、欲念は絶えずこの歓喜を掻き立て、恐怖により抑制されないときは、それを行為へ駆り立てる。悪がその欲念の中に存続し、そこからその愛の歓喜の中に存続している限り、彼は何ら信仰も、仁慈も、敬虔も、礼拝も持たず、ただ外面的にそれを持つに過ぎず、それは世では真実なものに見えるが、しかし真実なものではない。彼らは飲むに適しない不潔な泉から流れ出る水に譬えることが出来よう。人間は天界と神に就いて宗教的に考えつつも、悪を罪であると考えない限り、依然第一の状態の中にいるが、罪のようなものがあると考え始めるとき、第二の状態または改良の状態へ入り、このことまたはあのことは罪であると考え、ある程度それを自分の中に探し出し、それを欲しなくなるときさらに第二の状態に入るのである。

 

「人間の第三の状態または再生の状態は」、前の状態の継続である。それは彼が悪は罪であるため、悪を断念するとき始まり、これを避けるとき進展し、これと戦うとき完成し、次に主の導きの下に征服するに応じて、再生する。再生した人間の中には生命の秩序は逆になる。彼は自然的なものでなくなって、霊的なものになる、なぜなら自然的な心はそれが霊的な心から分離するときは、秩序に反するが、霊的な心は秩序に従っており、それゆえ再生した人間は仁慈から行動し、その信仰を仁慈に順応させるからである。しかし彼は真理を得るときにのみ霊的になるのである、なぜなら人は凡て真理と真理に従う生活により再生するから、なぜなら彼は如何に生くべきかを真理により知り、その生活により真理に従って生きるからである。かくて彼は善と真理とを霊的結婚により結合し、その結婚の中に天界が宿っている。

 

 

 

天界の秘義3128[3]

 

 自然的な人が善から真理を通して明るくされることについては―それはここでは『母の家』と呼ばれているが―実情は以下のようになっているのである、すなわち、前に言ったように、人間のもとに神的善は彼の合理的なものの中へ流れ入り、その合理的なものを通して彼の自然的なものの中へ流れ入り、実にその記憶知の中へ、すなわち、その中にある幾多の知識と教義的なものの中へ流れ入り、そこにそれ自身を適合させることにより、それ自身のために幾多の真理を形作り、その幾多の真理を通して自然的な人の中に存在している凡ゆるものを明るくするのである。しかしその自然的な人の生命が神的な善を受け入れないで、それをはねつけるか、または歪めるか、または窒息させるかする底のものであるなら、そのときは神的善は適合されることは出来ず、かくてそれはそれ自身のために真理を形作ることは出来ず、従ってその自然的なものは最早明るくされることは出来ないのである、なぜなら自然的な人が明るくされることは善から真理を通して遂行されるのであって、もはやそれが明るくされることが出来ないときは、改良は在り得ないからである。これが内意に自然的な人もまたその性質の方面で多く取り扱われている理由であり、かくて真理は何処から発しているか、すなわち、それはそこに在る善から発していることが取り扱われている理由である。

 

 

 

 

5.真理に対する情愛から真理を愛するなら、死後霊界で改良される

 

 

神の摂理143

 

改良は凡て真理と真理に従う生活によりなされるため、何人も「無知の状態」では改良されないし、それゆえ真理を全く知らない者は改良されることは出来ないが、しかしもし真理に対する情愛から真理を愛するなら、死後霊界で改良されるのである。

 

 

 

 

6.世に住む限り、改良または再生の状態におかれている

 

 

神の摂理17

 

 人間は世の生活の間に、善と真理、または悪と誤謬の結合或いは一致に到達することは殆どである。出来ない。なぜなら彼は世に住む限り、改良または再生の状態におかれているからである。しかし凡ての人間は死後何れかの結合に入って行く。なぜなら彼はその時もはや改良されることも、再生することもできないからである。その時彼は世のその生活のままに、即ち、彼を支配していた愛のままになる。それ故もしその生活が悪を愛した生活であったならば、彼が世で教師、説教、または聖言から得た真理はすべて彼から取り去られ、彼はスポンヂが水を吸収するように、彼の悪に一致した誤謬を吸い込むのである。これに反し、もしその生活が善を愛した生活であったなら、彼が世で聞きまた読んで得たものの、確認はしなかった誤謬はすべて、そのとき彼から取り去られ、代って彼の善に一致した真理が与えられる。これは主の以下の語により意味されている、「その者からそのタラントを取って、十タラントを持った者に与えよ、持つ者は凡て与えられて、豊かになるが、持たない者からはその持っている物も取られるのである」(マタイ25・28,29,13・12、マルコ4・25、ルカ8・18,19・24−26)