科学

 

 

 

1.科学

2.学者

3.悪と誤謬にいる者らは意志の代わりに欲念を持ち、理解の代わりに科学を持っている

 

 

 

 

1.科学

 

 

新しいエルサレムの教義51

 

人間は化学と知識とにより考えることを学び、次に真で善いものを理解することを学ぶため、これらのものを吸引しなくてはならない(129、1450、1451、1453、1548、1802番)。

 

 

 

新エルサレムの教義51

 

科学(知識)は死後無価値になるが、しかし人間が科学によってその理解と生命〔生活〕に吸収したもののみが価値のあるものとなる(2480番)。にも拘らず科学的なもの(知識)は凡て死後も存続はするが、しかし静止してしまう(2476−2479、2481−2486番)。同じ科学的なものでも、悪い者のもとでは悪に用いられるため、誤謬となるが、善い者のもとでは、善に用いられるため、真理となる(6917番)。悪い者のもとでは科学的真理は、その中には悪があり従ってそれは誤謬化されているため、話される時は、いかほど真理のように見えようとも、真理ではない、そしてそうした人間の科学は生命を欠いているため、決して科学と呼ばれるには価しない(10331番)。

 

 

 

新エルサレムの教義51

 

科学(知識)、理知、知恵は霊的な食物である以上、天使たちは知ることを、また賢明になることを無限に願っている(3114、4459、4792、4976、5147、5293、5340、5342、5410、5426、5576、5582、5588、5655、6277、8562、9003番)。

 

 

 

新エルサレムの教義51

 

古代人の中では主要な知識は、または科学は相応の知識(科学)であったが、しかし現在それは失われている(3021、3419、4280、4844、4964、4966、6004、7729、10252番)。

 

 

 

新エルサレムの教義51

 

相応の知識(科学)は東洋人の間に、またエジプトに栄えた(5702、6692、7097、7779、9391、10407番)。そこから彼らの象形文字が生まれた(6692、7097番)。古代人は相応の知識により霊的な物を内的に知るようになった(4749、4844、4966番)。聖言は相応そのものにより記されており、そこからその内的なまたは霊的な意味が生まれており、その存在は相応の知識が無くては知られることは出来ず、聖言もまた知られることは出来ない(3131、3472−3485、8515、10687番)。相応の知識はいかほど他の知識に優っていることであろ(4280番)。

 

 

 

霊界日記560

 

 私と共にいる者たち(木星に住む者たち)が馬を見ると、彼らは、そうしたものは多く彼らのもとに見出されることは出来るが、しかしそれらは森の中にいると言い、それらは危害を加えはしないものの、彼らはそれらを非常に恐れ、実に、それらを恐れる思いが植えつけられている。この恐れの潜在的な原因は馬は科学を表象しており、個々のもの〔特殊なもの〕の、または感覚の科学は、従って身体、自己、世の科学は最古代教会を迷わせ、そこから堕落を生じさせたものであったということである。彼らを迷わせた知識の木にもそれに類似した意義がある。こうした事柄の中に彼らが馬を恐れる思いの理由が隠れている。ここから彼らは科学を学んではならないということが起こっている、なぜならそのことにより彼らの理解は暗まされ、盲目にされ、かくて、そこから生まれてくるところの、自己と世とを求める愛が主権を持ち初めて、暗黒(の状態)を支配し初めるのである。

 

 

 

 

 

 

霊界日記4578小

 

(現今の科学はいかに無価値なものであるか、その科学により人間は賢人として見なされていることについて)

 

私は、人間が賢い者としてみなされる手段ともなる現代の科学について霊たちと話した。全般的に、科学は賢明になる手段であり、または人間の合理的な心を形成する手段であり、そのことは正しく言語が思考を発展させる手段となっていることに似ているのである。諸真理の中にいる者たちは、科学により、多くの確認させるものを得、かくしてかれらの観念を充分に満たすことができるのである。誤ったものの中にいる者らもまた、その同じ科学により、いくたの確認させるものを得、かくてその観念を誤ったもので満たすことができるのである。有益な[有用な]科学は物理学、光学、化学、薬学、解剖学、数学、天文学、建築学、植物学、冶金学、歴史、王国の政治といったものであり、その凡てのものにより、それを手段として、たれしもが合理的なものになることが出来るのである。

しかし考える能力を破壊し、合理的なものを絶滅させてしまう幾多の科学もあるのである、例えばスコラ哲学であるが、すなわち、彼らは、殆どたれにでも理解できる或る一つの平凡な事柄を、多くのスコラ哲学的な述語で説明し、遂にはたれ一人それを理解しなくなってしまう時のようなものである。一連の推論により―述語[専門語]を定義づけ、そこから結論を引き出すことにより―何かの判断が形作られる際の哲学であるが、そうしたものが共に結びつけられる際、それはたれからも理解されることが出来ないようなものを提示するのであり、そうしたものの関連もまた理解されはしないのである。

それらは理性をことごとく取り去ってしまうのの、それでもそれには極めて単純に説明されることが出来るもの以外のものは何一つ含まれてはいないのであり、もし欲するなら、それはたれからでも理解されることが出来るのである。また論理学であるが、それは真実なもの[真理]を分析して、これに疑わしいものの間の一つの位置を帰しているが、まして、多くの命題により、その際含まれているただ一つの事柄が明らかにされねばならない際、そうしたことが行われているのである。多くの場合、その結論は、いかような三段論法もなしに、明らかに理解される、といったものである。

これらのものはまた、単純な真のことが幾何学と代数により証明される際のその幾何学と代数に似た実情におかれており、その際、その事柄は、そのように混ぜ合わされて、角ばった、円い、また曲がった形により表現され、その形に従って説明されもして、たれからも理解されなくなるのである。こうした科学により、またそうした科学を適用されることにより、人間は常識を失い、発狂してしまうのである。

 

 

 

霊界日記4579小

 

現今、こうした科学に通じた人間が賢いものとされてはいるが、それでも彼らは最も単純な者よりも更に単純なのである。現今の知恵はこうしたものである。古代の知恵は決してこうした性質のものではなく、それは赤裸々な真理を教えたのであり、かくて人間は無数の真理を知り、また考えることが出来たのであるが、現今では、彼は殆どいかような真理も知ることは出来はしないのである。

 

 

 

 

2.学者

 

 

天界の秘義6316

 

 学者の大部分は感覚的なものであると聞くと、あなた方は驚かれるであろう。その理由は、彼らは名誉を得て、それにより利得を得ようとして、ただ名声のためにのみ知識を得ているのであるが、賢明な者になろうという目的を抱いてはいなかったということである、なぜなら学界の科学は凡て賢明になる手段ともなり、また発狂する手段ともなるからである。学者たちは名誉を与えられると、その後は単純な者よりも更に感覚的に生き、その時は神に何かを帰して、深慮と自然とに帰しはしないことは、また他の者凡ゆる物を偶然に帰しはしないことは、愚物の為すところであると信じるのである。

 

 

 

 

3.悪と誤謬にいる者らは意志の代わりに欲念を持ち、理解の代わりに科学を持っている

 

 

新エルサレムの教義33

 

善と真理にいる者たちは意志と理解を持っているが、悪と誤謬にいる者らは意志と理解を持っていない。彼らは意志の代わりに欲念を持ち、理解の代わりに科学を持っている。なぜなら真に人間的な意志は善を受ける器であり、理解は真理を受ける器であるから。そうした理由から意志は悪について述べられることは出来ないし、理解も誤謬について述べられることは出来ない。なぜならそれらのものは相反したものであり、相反したものは互いに他を破壊するからである。そこから、悪におり、かくて誤謬にいる人間は合理的であり、賢明であり、理知的であると呼ばれることは出来ないことが生まれている。悪い者のもとでは、また意志と理解を第一次的に宿しているその心の内部は閉じられている。悪い者も、私は意志する[欲する]、私は理解すると語っているため、彼らも意志と理解を持っていると信じられるが、しかしその欲するところは単に欲念にすぎず、その理解も単に知ることにすぎないのである。