殉教
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
3.サンダー・シング
4.スウェーデンボルグ
5.聖母から司祭へ
6.ルイザ・ピッカレータ
1.聖書
使徒言行録7・54−60
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P110
私の殉教者たちは、この世を聖なるものとしようとして福音を証するという、私から受けた使命を果たすことだけ考えた。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P336
聖母マリア:
「私の愛する少女(マリア・ワルトルタのこと)よ、泣くがよい。しかし、剛毅を失わないで。殉教とは、苦しみの形にあるのではありません。殉教者は、その苦しみを、どのような根気をもって耐え忍ぶかにあります。そのために、武器によらずに、心の苦しみによっても殉教であり得るのです。同じ目的のために耐え忍んでいる時にも。あなたは、私の子の愛のために、いろいろと耐え忍んでいます。あなたが兄弟たちを救いたいためにしていること、それはいつもイエズスへの愛のためです。そのためにあなたの生活は殉教です。自分勝手にいろいろ決めずにこれを続けなさい。拷問に反逆しないで苦しむことを続けなさい。ただ、あなたはイエズスに“私を助けてください”と言うだけで足ります。そうしたら、あなたのできないことを、彼があなたの中に行うでしょう。ただ、いつも彼と一緒にいなさい。私は、あなたを祝福します。“願わくは、父と子と聖霊とに栄えあらんことを”と、私と一緒に唱えなさい。これは天国で繰り返す時まで、あなたの叫びであってほしい。主の恩寵は、いつもあなたとともに」
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P193
その代わりに、その使命を従順に受け入れ、義務を喜び、全くのいけにえにするならば、それは非常にまれな真珠になる。“使命を、どんな留保もなく果すならば、それは燔祭、殉教、光栄である”それは涙、汗、血がしたたる王制の冠となる
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P367
私は、私の英雄的な生死をもって、あなたたちのために天を勝ちとったのである。あなたたちは私に倣うべきである。英雄であることは、殉教して死ぬ人々だけのことではない。キリスト的生活は、永久の英雄性である。なぜなら、世間、悪魔と肉体に対しての絶えざる戦いだからである。私は、あなたたちが、私に従うように強制しない。私は、あなたたちを自由なものとして残す。しかし私は偽善者をきらう。私とともに、私のように生きるか、それとも私に反して生きるか、あなたたちは私をだますことはできない。敵との妥協までに下がることはできない。もし、あなたたちが彼を選ぶならば同時に私を友人として考えてはならない。彼か、それとも私を選べ。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/424.3/6卷下P147
「先生、前におっしゃいましたね、私たちは迫害を受けて殉教すると。私たちは悔い改める暇がないうちに、彼らに捕らえられて殺されるかもしれません。あるいは、私たちは弱いですから、非業の死を受け入れることができないかもしれません・・・そうしたら?」と、弟子たちの中から、アンティオキアのニコラオが尋ねる。
「そんなふうに思ってはいけません。あなたたちは弱いですから、殉教に身を任せることはできないでしょう。でも、主の証人となるべき偉大な霊魂には、超自然的な助けが、主から注がれるでしょう・・・」。
「どんな助けでしょう? 無感覚とか? 」。
「いいえ、ニコラオ。完全な愛です。彼らは愛を獲得し、拷問も、非難も、家族や人生との別れも、あらゆるものがもはや悲しいことではなくなります。それどころか、天国に上がるための土台となります。ですから、そのために、すでに魂があるところ、天国へ行くための手段として、拷問を心から受け入れます」。
「そのような死に方をする人は、たくさん赦されるでしょうね」と、年配の弟子が言う。私はその人の名前を知らない。
「たくさんではなく、完全に赦されます。パピアス。なぜなら、愛は免償、犠牲は免償だからです。勇気ある信仰告白も免償です。ですから、殉教者は、三重の浄化を受けることになります」。
「おお! それなら・・・私はたくさん罪を犯しました、先生、赦しをいただくために、このお弟子さんたちについて来ました。そして、昨日、あなたは私を赦してくださり、そのために、あなたは、人を赦さない罪びとたちから侮辱されました。あなたの赦しこそ赦し本物だと思います。でも、私は長年罪を犯して来ましたから、殉教の免償を与えてください」。
「あなたが求めているのは、大変なことですよ!」。
「私が捧げるものなど、大したこと、ありません。ゼベダイのヨハネの言葉をあなたがお認めになったように、至福を受けるためですから。お願いします、主よ。あなたのために、死なせてください、あなたの教えのために・・・」。
「なんと、大それた頼みでしょう! 人間の命は、父の手にあるのですよ・・・」。
「でも、あなたの祈りは、すべて聞き入れられます。あなたの裁きがすべて通るように。永遠の父に、そうしてくださるよう、頼んでください・・・」。
男性はイエズスの足元にひざまずく。イエズスは男の目を見て言う、「こうは思いませんか? この世が全く魅力を失い、心は天を思い焦がれているのに、生きなければならないのは、殉教だと。他の人びとに愛を教えるために生きることは。先生の失望を知り、先生に霊魂たちを捧げるために、辛抱強く努力することは。あなたの願いの方が勇敢だと思えても、つねに神のご意志を行いなさい。そうすれば、あなたは聖なる者になれるでしょう・・・さて、あなたの仲間たちが必需品を持って来たようです。あまり暑くなる前に町に到着できるよう、もう出発しましょう」。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P47
そしてもしあなたたちがこの世で、キリストとその先駆者、またエリヤと共通の運命を有するなら、それが残酷な運命、精神的な暴力にさいなまれる流血の運命であろうとも、その運命をあなたたちはキリストと共に、その先駆者と共に預言者と共に有するであろうあなたたちの未来の保証された運命に微笑みなさい。働きにおいて、苦しみにおいて、栄光において同等だ。此岸(しがん)では、わたしが師であり、模範である。彼岸(ひがん)では、わたしが報いであり、王である。わたしを有することが、あなたたちの至福となるだろう。苦しみを忘れることだろう。そのことをあなたたちに理解させるためには、どんな啓示も不充分であろう。なぜなら、未来の生活のよろこびは、まだ肉に結びつけられている被造物の想像力の容量をはるかに上回るからだ。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P131
勝利を得る者には、いのちの木の実をたべさせよう(黙示録2・7)
‘43年8月18日
イエズスは言われる。
「時宜にかなっているとわたしが判断する幾つかの章句について貴女に説明をつづけよう。
『勝利を得る者には、いのちの木の実を食べさせよう・・・』と言われている。またこの考えはわたしに適用されている。
その通りだ。わたしは永遠の生命の木であり、聖体のなかに糧としてわたしをあなたたちに与えており、わたしが見るところ来世においては勝利者たちの歓喜あふれる糧となるだろう。しかしこの章句には、まさに『勝利者たち』ではないがゆえに、わたしにけちをつける多くの者が知らないもう一つ別の意味がある。
勝利者とは何者か?勝利者であるためには何が必要か?華々しい英雄的な行為か?そうではない。もしそうなら勝利する者たちの数はあまりにも少ないだろう。勝利者たちとは、自らの道理を通そうとする獣に自分の内面において打ち勝つ人たちである。確かに、自然的、超自然的共同作因に助けられた、短いが、残忍な殉教と、密かで、覆われた、間断無き戦いがあり、この両者を神の秤にかければ最大の重さ、あるいは少なくとも異なる類の重さであるが、貴重なのは後者である。
専制君主の誰一人肉と悪魔以上の専制君主はいない。また、肉と悪魔に勝つことを知り、肉を霊にし、悪魔を敗者にする人々は『勝利者たち』である。
だがそうであるためには自己を全面的に愛に委ねなければならない。全面的に、即ち全力を尽くして愛する人は、自分自身のためには何ひとつ取っておかず、自分自身のために何一つ取っておかないことによって肉のためにも悪魔のためにも何ひとつ取っておかない。彼はすべてを彼の神に与え、神は神を愛する人にすべてを与える。
神はその人にその御言葉を与える。これこそ神が勝利者にすでに地上にいた時から与える食べ物であり、神は地上で勝利者にこれ以上偉大なものを与えることは出来なかった。天に捧げられた霊魂の糧であるためにわたし、父の御言葉を与えるのだ。
わたしの言葉は主なる神にすべてを委ねた霊魂たちを養うために天降る。真の道案内を探し求め、真の道案内も無く、滅びていく衆生を導く多くの優柔不断な道案内人を目の当りにしているあなたたちの、司祭、指導者となるためにわたしの言葉はやって来る。真理を理解したあなたたちは、これだけが必要なのを知っている。すなわち、わたしの言葉によって生き、わたしの言葉を信じ、わたしの言葉によって歩むことだ。
マリア・ヴァルトルタ652/天使のたより第6号P28/天使館
さて、今は? あなたたちは師に何か言いたいことがありますか? わたしに話さなくてもいいのです。だがあなたたちの心の中で話し、ただそれをすることが出来るなら、小さなヨハネに話しなさい。しかし、この二つのどの場合にも、わたしがあなたたちのうちに見たいと思うあの正義をもって話しなさい。なぜなら、このキリスト者、この姉妹、神のこの道具に対する愛徳を踏みにじって、あなたたちは小さなヨハネを苦しませるからです。もう一度、まことにあなたたちに言いますが、わたしの道具となることは、静穏な喜びではありません。苦労と努力の連続であり、世は師に与えたもの、すなわち苦しみを、その弟子たちに与えるから、すべてに苦しみがあります。少なくとも司祭たち、特に信徒同朋たちは、自らの十字架を負って進んで行くこれらの小さな殉教者たちを助ける必要があるでしょう・・・
3.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P237
真の奉仕と義務の遂行のためには、わたしの下僕たちは命そのものさえ捧げる用意がなくてはならない。それは、雪の降りしきる厳寒の中で、凍りついて死ぬまで持ち場を離れず、他の見張りたちが暖をとるために持ち場を離れても、まるで銅像のように立ち尽くしたあの忠実な兵士にも似ている。王が来て死ぬまで忠実に立っていたこの兵士をみたとき、王は自分の冠を脱いで兵士の頭にかぶせ、こういった。『このような忠実な兵と下僕こそわが冠の名誉と栄光に相応しい。彼が生きていれば、わが王国の頭に抜擢したろうに』。わたしから託された奉仕においても、わが忠実な下僕たちは同じようにしなければならない。このような信仰と勇気をもって仕事を果たした者たちに、わたしは朽ちることなき不滅の王冠を授ける。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P246
わたしの名のために殉教することは容易だが、他を救うために生きながらにして毎日犠牲となるような、生きた証人が必要である。「日々に死する」が信者の生き様ならば、死ぬより生きることの方がはるかに難しい。だが、このようにしてわたしのために命を捨てる用意のある者たちはわが栄光を共にし、満ち満ちた歓喜の中でわたしとともに永遠に留まる。
悩み苦しみ、嘆き悲しみが雲のように起こり、義の太陽を覆い隠すとも挫かれてはならない。やがて暗雲は祝福の雨となってあなたの上に降り注ぎ、義の太陽はあなたの上に昇りいつまでも沈むことがない。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P369
何週間か前に、わたしはアルメニアの宣教師から手紙を受け取った。彼は、二、三年前にアルメニアで起きた大虐殺の場に居合わせた一人だった。彼はこう書いている。
「数千人のクリスチャンが目の前で殺害され、わたしも重傷を負い放置されました。それは恐ろしく、胸の裂かれるような光景でありましたが、同時に非常な歓びを伴うものでもありました。男も女も、老いも若きも、残酷極まりない方法で虐殺されました。しかし、生けるキリストの力がどの人にも現れていました。それを見て、殺す側も驚いたほどです。
わたしたちは、必要に応じて力を与えられました。キリストと天使をくっきりと見、歓喜の中で魂を主の御手に託す人々もいました。事実それは虐殺の日ではなく、主との婚姻の日でありました。わたしはこの人々と一緒に命を奪われていれば、どんなによかったかと思います。しかし、わたしは神に感謝しています。今少しお仕えするために、主はわたしを虐殺から救い出し、ある場所に移してくださいました。そこで傷は癒され、ふたたび仕事に戻ることができたからです。」
これ以外にも、類似の体験をしたアルメニアの友人たちがいるが、ここで引用するまでもないだろう。クリスチャン生活の真実を立証する奇蹟は、他にも数多くある。どの国、どの国民にも、キリストに生き、主から受け取る数知れぬ恵みによって、人生を実りあるものにしている人々がいる。神の民が、生命を与える主の現存を知り、「見よ、わたしはいつまでもあなた方とともにいる」といわれた主の尊い約束を、生きている内に体験できることは、何という慰めであろう。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P422
病のために舌の感覚が一部損なわれ、人によっては砂糖の甘味がわからなくなる場合もあるだろう。だが、何百万人もの人々の舌の感覚まで損なう病は、かつても、今も、これから先も存在しない。数えるほどの人々の霊的感覚が損なわれることはあるだろう。だが、あらゆる国々、民族、人生の境遇にある、何百万人という人々がイエスに救いと平和を見出し、彼を証している。御恵みを施し、祝福を与えたその実在を証したがために、幾万人もの人々があるいは火に焼かれ、あるいは獣に引き裂かれ、あるいは剣に倒れながらも、歓びをもってこの試練に耐え、死に至るまで証言をし続けた。なぜか。全員の霊的感覚が損なわれたからであろうか? 断じてそのようなことはない! このような議論は真昼の太陽を夜の闇と呼ぶに等しい。そのような主張をすることのできる者こそ、霊的感性と識別力に欠けている証拠である。
徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P206
キリストのために死ぬことはたやすいが、キリストのために生きることは難しい。死ぬには一、二時間しかかからないが、キリストのために生きることは、日々に死するを意味する。人とキリストに仕える特権を手にできるのは、この短い生涯だけである。たえず天界にいることが神の御心であれば、とうにそこに行っていただろう。だが、自分がまだ地上にいるからには、働く義務がある。わたしがヒンドゥー教の棄捨の考え方に反対するのは、まさに、この点にある。わたしは、自分をサンニャーシンとは呼ばない。サンニャーシンとは、“捨てる者”を意味する。この世のすべてを悪と考え、世を捨てるのがサンニャーシンだか、わたしはすべてが善であると考えている。世はすべて、天なる父の財産なのだから、わたしの財産でもある。わたしが世を捨て去れば、父が与えてくださった贈物の一部を捨てることになる。だから、わたしは世を捨てたりはしない。この世の悪だけを捨てるのだ。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P360
あなた方の中には、チベットの殉教者、カータル・シングについておききになった方もいると思います。福音伝道に行ったとき、彼は「黙りなさい。キリストの話はききたくない」と人々にいわれました。彼は、貴族階級の息子で、チベットでの伝道のためにすべてを捨て去った人です。救いを与え霊魂を満たせるのは、富ではなくキリストであることを、身をもって経験した人です。わたしが伝道のためにチベットに入ったときに、この人の殉教の顛末(てんまつ)をきかされました。彼は、丘の上に引き立てられて、濡れたヤクの皮で縛り上げられ、三日間、日にさらされました。カータル・シングの殉教を語る男の顔が喜びに光っているのを見て、わたしは驚きました。「悲しい話をしているのに、あなたは嬉しそうに見えます」と声をかけると、相手は次のように答えました。「悲しくはありません。わたしは彼の死についてお話ししているが、わたしが見たのは死ではなく、素晴らしい生だったのですから。彼は、まる三日間皮の中で締めつけられ、飢えと渇きに苦しんでから、『気分はどうか』ときかれ、『キリストのために苦しむこのような特権を与えられたことを、神に感謝する』と答えたのです。しかし、彼は苦しんだのではない、大いなる歓喜に浸っていたのです。わたしは、そのことを人にわからせたい。そうすれば、キリストとともに生きることが地上天国であることに同意するはずです。人々は鉄の爪で彼の腹を引き裂き、そこから血が溢れ出しましたが、それでも彼は歓びに浸っていました。彼らが去ってから、カータルはいいました。『自分は捨てられたが、キリストは自分を見捨てていない。主はわたしとともにいるばかりか、わたしの中にいる。この皮の中は天国だ。このような特権をいただいたことを神に感謝する』」
いったい、苦しみの中でこれほどの歓びを得られるのであれば、迫害のまったくない天国ではどれほど大きな歓びが待っていることでしょう。問題は、今その歓びを味わうことなしに、死後味わうことは有りえないということです。わたしたちは神の中に生きている。しかし、神はわたしたちの中には生きてはいないのです。神は空気のように遍(あまね)く存在されるので、わたしたちは神の中に生きています。しかし、心の中に主の臨在を実感していなければ、主は私たちの中にはいません。
4.スウェーデンボルグ
啓示による黙示録解説112
『殉教者』により証と同じ意味の、真理の告白が意味されているのは(前の6、16番)、『殉教者』と『証』とはギリシャ語では同じ表現をもって表現されているためである。
霊界日記3187
そうした事柄に功績をおき、天界で
特別の恩恵を得ようと欲する者らは真の殉教者ではない、なぜならそうしたことは天界のものではなく、または真の信仰の特質となるものではないからである。
5.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1976.5.28
苦しみの道に於いて私にしたがいなさい。
今や、あなたがたが屠られる時が来ています。あなたがたはますます苦しむために呼ばれています。
あなたがたのこの苦しみを全部私にください。
現代は、あなたがたの多くの兄弟たちの誤解やざんげんの時です。
明日あなたがたは、神の敵、無神論者から迫害、捕虜、処刑にあわせられるでしょう。
彼らは、あなたがたをどうしても消すべき邪魔者と見ているからです。
聖母から司祭へ1995.2.2
あなたがたのいけにえの時が到来しています。
わたしは、常にあなたがたのそばにいて、どんな時にも手を引いて導くのです。
ちょうど母親が自分の幼児の手を引くようにです。
天使館/ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P147
「私はすっかり困惑してしまい、なんとお答えしてよいか分からないでいますと、イエスはお消えになりました。少ししてから戻ってこられましたが、主と一緒に、非常に死を恐れている様々な人たちを見ました。私はそれを見て申しました。
『愛すべきイエスよ、多くの人が死を恐れているのを見ますが、私が死を恐れないことは欠点でしょうか? 私が思いますには、死はいつまでも私とあなたを一致させますので、別離という私のつらい殉教も終わるでしょう。死についての考えは、私になんの恐れも生じさせないだけでなく、私にとっては慰めです。それは私に平和を与えてくれますので、私は、それと共に死をもたらす他のすべてのことを放棄して、死を大歓迎するでしょう。』」