純潔
マリア・ワルトルタ47・4−5/天使館第1巻P418
イエズスは言われる。
「わたしに出会ったグループは多数から成っていました。だが、わたしを認めたのは、そのうちの一人だけでした。彼はどんな色欲にも汚されていない、澄みきった思念と肉の持ち主でした。
わたしは純潔の価値にこだわります。貞潔は常に思念の明晰さの根源です。それに、童貞=処女性は、童貞=処女である者のみが経験する、完徳への知的、情緒的感受性を磨き、保存します。
童貞=処女である方法はいくらでもある。これは特に女性によくあることだが、いかなる結婚も必然的に選択されなかったときである。男たちにとってもそうあるべきでしょう。だが実際はそうではありません。それは悪いことです。というのも、時期尚早に性欲に汚された青春からは、情緒的にも身体的にも病む家長しか生まれないだろうから。
自ら志した童貞=処女性、すなわち、迸る心の発露によって主に自分自身を奉献する人びとのそれがある。すばらしい童貞=処女性!神に嘉される生贄!だが、皆が皆、泥土を知らず、天に向って真直ぐに伸びる茎の上に、たわみもせず不動であり、神という太陽の接吻とその露にのみ開く百合の純白のままでいられるわけではありません。
マリア・ワルトルタ47・6/天使館第1巻P419
純潔の価値は、あなたも見たように、サタンがまず第一に不浄不純な行為へとわたしを懸命に誘い、説得しようとした、それほどのものなのです。サタンは、官能にまつわる罪がまず霊魂の砦をぶち壊せば、霊魂を他の罪の虜にさせるのは簡単だ、ということをよく知っている。わたしに勝つために、サタンの関心事はこの主要な点に向けられたのです。
パン、飢えは、食欲の、そしてサタンが彼の目的を遂げるために利用する性欲の、いわば物質的比喩です。わたしを自分の足下にひれ伏させようと、サタンがわたしに差し出したのは、食物とは全く別のものだった!その次には暴飲暴食、金銭欲、権力、偶像崇拝、冒涜、神の掟を放棄することと続いたのかもしれない。だが、彼がわたしをものにしようとして最初に試みた方法はこれだったのだ。アダムを傷つけるために使った、あの同じ手です。
マリア・ワルトルタ47・7/天使館第1巻P419
世は純潔な人びとをあざわらいます。淫らな罪を犯している者たちは、純潔な人びとを攻撃します。洗礼者ヨハネは淫蕩な二人の男女の色欲の犠牲となりました。世に、いまだいくばくかの光があるとすれば、それは純潔な人びとであるはずです。彼らこそ神のしもべであり、神と神のみ言葉を知っており、それを繰り返します。わたしは言った。『心の清い人は幸いである。その人は神を見るであろう』と。心の清い人はまだ地球にいながらにして神を見るでしょう。官能の煙は彼らの思念を曇らせることなく、彼らは神を『見』、神の声を聞き、神に従って生き、人びとに神を指し示す。
マリア・ワルトルタ47・8/天使館第1巻P420
ゼベダイのヨハネは純潔な人です。わたしの弟子のなかで純潔な人です。彼は天使の体に花の霊魂を宿している! 最初の師であった洗礼者ヨハネの言葉でわたしを呼び、わたしに平安を願い求めた。だが、その純潔な生活によって、彼は自分のうちに平安を有しています。わたしは彼をその純潔ゆえに愛し、その純潔にわたしの教えと秘密と、わたしが有していた最も愛すべき被造物(マリア)を託したのです。
ゼベダイのヨハネは、わたしの一番弟子であり、彼がわたしを見た最初の瞬間から、わたしの愛弟子でした。彼の霊魂は、わたしがヨルダンの岸辺に沿って歩いているところを、洗礼者から指し示されて見たその日からわたしの霊魂と溶け合っていた。それ以後、荒野からのわたしの帰還後に、わたしと出会っていなかったとしても、彼は必死でわたしを捜し出そうとしただろう。純潔な人は謙遜であり、神の知識を学ぼうと熱望し、川の水が海へと流れ込むように、天の教えを説く教師たちだと認識した人たちのところに来るからです。
マリア・ワルトルタ47・10/天使館第1巻P421
さて、わたしたちは共にガリラヤ湖岸に戻った。わたしはそこを避難所とし、そこから福音宣教を始め、二人の弟子―わたしと共に旅をし、わたしが身を寄せていた、わたしの家の一友人の家で丸一日共に過ごした後―は、わたしについて他の漁師たちに語った。だが、率先したのはヨハネであった。
彼の悔い改めの意志は、その純潔によってすでに澄明な魂を、真理が鮮明に反映する澄明さの名品にし、神が存し、神の真理と教えと道があると見るや、恐れず、真っしぐらに前進する純潔な者、寛容な者のもつ聖なる大胆不敵さも彼に与えました。
わたしはどれほど彼の混じり気のない英雄的な性格を愛したことか!
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上/P91
ヨゼフが
「マリア、私はあわれな無智な人間にすぎず、貧しい労働者でしかありません。学問もなく、財産もない。けれども、あなたの足元に私の宝物として、永久に私の“絶対的”純潔を置きます。“私のいいなずけの姉妹、閉じられた庭園、封じられた泉”神の処女(雅歌4・12)である、あなたのそばにいるにふさわしい者でありますように。私たちの祖先が雅歌を書いた時に、多分あなたのことを書いたのでしょう・・・。私は最も貴重な果物のある香り高い庭園の番人となります。その庭園からやさしく生きる水がほとばしる。」
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・4・2
もしあなたの心が善良で純潔(きよ)いならば、あなたはいっさいを妨げなく見、正しく悟ることができるだろう。
純潔い心は天国や地獄を見通す。
人はみな自分の心の状態に従って、外部(そと)のことを判断するものである。
もしこの世に喜びというものがあるとすれば、心の純潔い人こそそれを味わう。
もしまたどこかに難儀や心配があるとすれば、良心の疾(やま)しい者こそそれをもっともよく知っている。
鉄が火の中へ入れられると、銹(さび)を失って真っ赤になるように、人もまったく神に帰依すると、冷淡の心を失って、新しい人と変わるのである。