自己責任

1.しかしその責めは本質的にはその考えを受け入れる者にある

2.或る人間が救われないならば、それはその者の責任である

3.それは私の責任ではありません

4.誰が悪い結果の原因は熱にはなくて、それを受けるものに在ることを認めることができないか

 

 

 

1.しかしその責めは本質的にはその考えを受け入れる者にある

 

神の摂理294(イ)

 

「その場合には人間は悪を為してもとがめられないであろう」。なぜならもし人間の考える凡ゆる物が他の者から彼へ流れ入るならば責めはその流れ出る源の者に在るように見えるから。しかしその責めは本質的にはその考えを受け入れる者にある、なぜなら彼はそれを彼自身のものとして受け入れて、それがそうではないことを知りもしないし、また知ろうともの欲しないからである。(中略)

さて人間は自分は他の者により考えるように仕向けられていることを知ろうと欲しないで、自分自身から考えようと欲し、またそのように考えていると信じているゆえ、もし彼が間違ったことを考えるならば、自分自身にその責めがあることが推論され、また彼はその考えるように考えることを愛する限り、責めから免れることもできないのである、しかしもし彼がそのことを愛しなくなるや否や、彼はその他の者との関係を絶つのである。これは彼が或る事柄が誤っていることを知り、そのためそれを避けそれから遠ざかろうと欲するときに起る。そのときまた彼はその悪にいる共同体から、その悪から自由である共同体へ主により移される。しかしもし彼がその悪を認めつつも、尚それを避けないなら、そのとき責めは彼に帰せられて彼はその悪を犯す者となる。それ故人間が何であれ自分自身で為していると信じているものは彼に帰せられて、主には帰せられない。

 

 

2.或る人間が救われないならば、それはその者の責任である

 

神の摂理327[2]

 

「或る人間が救われないならば、それはその者の責任である」。

悪と善とは相反するものである故、悪は善から、善は悪から流れ出ることは出来ない、従って善から流れ出る物は善以外の物ではなく、悪から流れ出る物は悪以外の物でないという真理を合理的な人間は凡て直ちに承認する。この真理の承認はさらに以下の承認を意味している。すなわち善が悪に変えられることが出来るのは、善良な受容器官によるものでなく、悪い受容器官によるのである、なぜなら形は凡て、それに流れ入る物を何であれその形自身に同化するからである(292)。さて主は善の本質そのものであられ、または善そのものであられるゆえ、悪は主から発することは出来ず、また主により生み出されることも出来ず、善は悪い形をもった受容器官の主体により悪に移ることが明白である。このような主体は人間の自己性であり、これは絶えず主から善を受け入れて、絶えずこれを悪である自分自身の形に同化している。それゆえ救われないのはその当人の自己責任であることが推論される。悪は実際地獄から発している、しかし人間がそれwそこから自分のものとして受け入れ、かくてそれを自分のものとするなら、悪はその当人から発すると言うも、地獄から発すると言うも、意味に変わりはない。しかし如何にして悪が所有され、ついには宗教が滅んでしまうかを以下の順序により説明しよう、

 

 

3.それは私の責任ではありません

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P58

 

 しかし彼らは私を憎んでいます。私はこの世にとって一つの“危険”だからです。世間の偽り、欲望、暴力に対する危険そのものだからです。私は光で世間を照らすが、世間は光を愛しません。光は世間の俗悪さを、はっきり見せつけるから、世間は私を愛さない・・・私を愛することはできません。私が人間の心に打ち勝つために、つまり、人間を迷わせる闇の王に打ち勝つために来たと知っているからです。世間は私が医者であり、薬であることを認めようとせず、治療を拒んで狂ったように私を殺したいのです。

世間は私が主であるということに納得しない。私の言うことが世間の常識に背いているからです。そのために世間は、罪悪である自分の本性をあばこうとする私の声を、神の声を、押しつぶそうとしています。私と世間との間には、淵があります。それは私の責任ではありません。私はこの世に光と道を、真理と命を与えるために来たのに、世間は私を迎えようとしない。私の光は、その世間にとって闇に変わる。それは私を望まない人々の罰になるからです。

 

 

4.誰が悪い結果の原因は熱にはなくて、それを受けるものに在ることを認めることができないか

 

神の摂理292

 

誰が悪い結果の原因は熱にはなくて、それを受けるものに在ることを認めることができないか。