自己理知の誇り
1.意志的な自己性は本質的には自己への愛であり、知的自己性はその愛から発する誇り
2.自己から発した理知の誇りを意味する知識の木の実を食うこと
3.深慮の起原
4.聖母から司祭へ
5.彼らが己が理知を信頼しているため、真の賢者から教えられることを肯じない
6.その人間自身が自分自身から考えているときは(そのことを)把握するのは決して容易ではない
7.彼らは先ず酔いどれのようなものになり、それから愚物のようになり、ついには頓馬になって
8.それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている
9.悪鬼の国は自分自身の理知を誇って、そこから主権[支配]を求める愛の中におり、かくて狂っている者らから成っている
10.あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることは出来ない
1.意志的な自己性は本質的には自己への愛であり、知的自己性はその愛から発する誇り
神の摂理298(ロ)
「もしそのとき人間の理解が真理を見るなら、それはそこから遠ざかるか、またはそれを誤謬化するかする」。
人間は意思的な自己性を持ち、意思的な自己性は悪であり、知的な自己性はそこから発する誤謬であり、後者はヨハネ伝1・13の人の意志により、前者は肉の意志により意味されている。意志的な自己性は本質的には自己への愛であり、知的自己性はその愛から発する誇りである。この二つは結婚した匹偶(つれあい)に似、その結婚は悪と誤謬との結婚である。この結婚は凡ゆる悪霊の中に、その霊が地獄に入る前に行われ、彼は地獄に入ると、善とは何であるかを知らなくなる。なぜなら彼は悪が歓ばしいものに感じられるため、それを善と呼び、かくて真理から遠ざかり、またそれを見ようとも欲しないため、眼が美しいものを見るように、悪に一致した誤謬を見、耳が調子の整ったものに聴き入るように、それに聴き入るからである。
神の摂理313
自分自身の深慮を信じる者と自分のものでない深慮を信じ、それゆえ神的摂理を信じる者の性格は、一は生命の木であり、他は善悪を知る木の二本の木の在ったエデンの園のアダムとその妻イブにより、また彼らがその後の木の実を食べたことにより、聖言に記されている。アダムとその妻イヴにより、その内的なまたは霊的な意義ではこの地上の主の最古代教会が意味され、また示されており、これはその後これにつづいて起った諸教会よりも高貴で、天的であったことは前に(241)見ることができよう。他の物の意義は以下のようである、エデンの園はその教会の人々の知恵を意味し、生命の木は主の神的摂理を意味し、知識の木は人間自身の深慮を意味し、蛇は人間の感覚的部分または自己性を意味し、それは本質的には自己への愛であり、自分自身の理知の誇りであり、それゆえ悪魔であり、悪鬼である。知識の木の実を食うことは善と真理とを主から発しないものとして、それゆえ主のものでないものとして、即ち人間から発し、人間のものとして自分のものとすることを意味している。そして善と真理とは人間の許に現存する神的なものであるため―なぜなら善は愛の凡ての物を、真理は知恵の凡ての物を凡ての物を意味するから―それ故もし人間はこれらのものを自分自身のものとして要求するならば、彼は自分が神のようなものであると信じざるを得ない。これが蛇が『あなたがこれを食べた日には、あなたの眼は開いて、善を知り、神のように生きるでしょう』と語った理由である(創世記3・5)。これは自己愛に、従って自分自身の理知の誇りに居て地獄に住む者らの信念である。蛇を罪に定めることは自分のものとして要求される愛と理知とを罪に定めることを意味し、イヴを罪に定めることは意志の自己性を罪に定めることを意味し、アダムを罪に定めることは理解の自己性を罪に定めることを意味する。地が彼のために生む茨と薊とは全き誤謬と悪とを意味し、楽園から追放されることは知恵の剥奪を意味している。生命の木に通じる道を警備することは聖言と教会の聖い物を冒涜させまいとする主の配慮を意味し、彼らがその裸身を隠すために用いた無花果の葉は彼らの愛と誇りとを隠した道徳的真理を意味し、彼らがその後身につけた皮衣はそれのみしか彼らの持たなかった真理の外観を意味している。これがそれらの物の霊的な意味である。字義に止まりたいと欲する者はそこに止まられよ、しかしそれは天界ではこのように理解されていることを知られよ。
2.自己から発した理知の誇りを意味する知識の木の実を食うこと
神の摂理328(イ)
自己から発した理知の誇りを意味する知識の木の実を食うことにより起った最古代教会の終局は洪水により記されている。
結婚愛353
そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。
3.深慮の起原
神の摂理206
さて自己愛がその配偶者の理解をそれ自身の愛をもって刺激すると、その理解はその理解の中で、人間自身の理知の誇りという誇りとなり、これが人間自身の深慮の起原である。
神の摂理197[2]
「人間の生命を構成する愛から発する諸々の情愛は主にのみ知られている」
人間は自分自身の思考を知り、思考から意図を知っている、なぜなら彼は彼自身の中にそれを認めるからである、そして深慮は凡てこれらを手段として存在するため、彼は深慮もまた自分の中に存在するものとして認めている。それ故もし彼の生命の愛が自己への愛であるなら、彼は自己の理知の誇りを得て、深慮を自分自身に僭取する。彼はまたそれを支持する論議を集め、かくて神的摂理に対する信仰を失ってしまう。もし彼の生命の愛が世への愛であるなら、それと同じことが起るが、しかしそれは同程度に彼の信仰を失わせない。それゆえこの二つの愛は凡ての物を人間と人間自身の深慮に帰していることが明白であり、もしそれらが内的に点検されるなら、神と摂理には何物をも帰していないことが明らかにされる。それ故こうした人間は、人間の深慮は無であり、神の摂理のみが凡ての物を支配していることが真理であると言われるのを聞くと、もし頑固な無神論者であるなら、それを一笑に附するが、もし宗教的な知識を記憶に留めていて、知恵は凡て神から来ると言われるなら、それを始めて聞くときは、実際同意はするが、しかし内的には、その霊の中で、それを否定してしまう。
神の摂理210[7]
「凡てこれらの事は人間は自己から生まれた力により考え行動するように人間に見えるということに依存している。」
人間は自分自身から生き、かくて自分自身から考え、意志し、語り、行動するように見えない限り、人間でないことは前の頁に充分に示された。人間はその職業と生活に関連した凡ての物を恰も自分自身の深慮により左右するかのように左右しない限り、神的摂理により導かれ、左右されることは出来ないことが推論される、なぜならもしそうでないと彼は手をだらりと下げて、口を開け、眼を閉じ、流入を期待して息を殺して立っている人間のようになり、かくて彼は、自分は自分自身から生き、考え、意志し、語り、行動しているという認識と知覚から彼に生まれている人間的な特質を失うと同時に人間を獣から区別する自主性と合理性の二つの能力を失うからである。この外観なしには人間は受容し、働き返す力を持つことは出来ず、かくて不滅でなくなることは既に本書とまた「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されている。それゆえもし諸君が神的摂理により導かれようとするならば、諸君の深慮を主人の財産を忠実に処理する僕、部下として用いられよ。この深慮は、商売の資本として僕たちに与えられて、僕たちはその清算をしなければならなかったタラントである(ルカ19・13−25、マタイ25・14−30)。
人間には人間自身の深慮は深慮そのものであるかのように見える。彼は自分の中に自己愛という、神と神的摂理の最も恐るべき敵を抱いている限り、そのことを信じている。これは生来凡ての人間の内なる心に住んでいる。もし諸君がそれを摘発することが出来ないなら―それは摘発されまいとしているが―それは安全に住んで、扉を人間により開かれないように、また人間がそれを開いた後で自分が主により追い出されないようにと守っている。人間は悪を罪として、恰も自分自身の力により避けるかのように避けることにより、しかし自分は主から与えられている力によりそれを避けることを承認しつつ避けることにより戸を開くのである。これが神的摂理が共になって働く深慮である。
4.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1985.2.9
聖書、特に聖福音に収められた、この神のみことばだけが、あなたたちを導くべき光でなければなりません。
しかし現在、人間的な解釈や見方によって、またしばしば全体的に完全に紹介されないために、たくさんの疑問が生じています。
迷いは広がり、あなたたちが神のご計画に接するとき、理性によってのみ考えようとして、あまりにも人間的な対応を取るため、完全にこれを理解することができなくなります。
この態度は、傲慢によるもので、神の偉大な神秘に近づくことを、もっとも妨げるものです。
その真理を理解するには、小さなもの、正しくこれを見定めるには、貧しいもの、全体を会得するには、素直なものでなければなりません。これを間違いなくそのまま他人に伝えるには、謙遜でなければなりません。このため、わたしは、わたしのことばをもって、あなたたちを謙遜に、素直にまた、小さなものとして育てます。
5.彼らが己が理知を信頼しているため、真の賢者から教えられることを肯じない
真の基督教136
私はこれを聞くと、このように学問のある人々が霊界に既に或る期間いるにも拘らず、なおこれほどにも天界の事柄について無知であるのかと怪しんだが、しかしそれは、彼らが己が理知を信頼しているため、真の賢者から教えられることを肯じないためであることを認めた。
6.その人間自身が自分自身から考えているときは(そのことを)把握するのは決して容易ではない
スウェーデンボルグ/信仰3
しかし一般的には霊的な、または神学的な問題は超自然的なものであるため、たれにもそれは把握出来ないと言われている。しかしながら霊的な真理も自然的な真理と全く同じように充分に把握されることが出来るものであって、たとえそれが明らかに把握されないにしても、それでもそれを聞くとすぐに、それは真であるか、真でないかを認めることが出来るのである。このことは特に真理に感動する情愛の持主に言われるのである。(中略)
この凡ては私が霊たちと交わっている間に起ったのである。私と共にいた他の多くの者はそのことによって、霊的な事柄も、それが聞かれたり、読まれたりすると、自然的な事柄と全く同じように充分に把握されることが出来ることを納得したのである。しかしその人間自身が自分自身から考えているときは(そのことを)把握するのは決して容易ではないのである。
霊的な事柄も把握されることが出来る理由は、人間は理解の方面では天界の光の中へまでも高揚されることが出来るのであって、その光の中では霊的な事柄以外のものは何一つ現れないのであり、その霊的なものは信仰の真理であるということである。なぜなら天界の光は霊的な光であるから。
7.彼らは先ず酔いどれのようなものになり、それから愚物のようになり、ついには頓馬になって
聖書118
最後に、私は凡ゆる物を自分自身の理知に帰して、聖言には僅かなものしか、または全く何一つも帰さない者らはいかような性格のものになるかを述べよう。彼らは先ず酔いどれのようなものになり、それから愚物のようになり、ついには頓馬になって、暗がりの中に座るのである。それで、こうした狂気を、凡ての方は警戒されるように。
8.それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている
神の摂理233(ヘ)
善を汚すことは聖言では姦淫により示され、真理の誤謬化は淫行により示されている。これらの汚辱と誤謬化とは悪にいる自然的な人間により行われ、また聖言の文字的な意義の外観を確認することによって示される理論により行われる。凡ての悪の源泉である自己への愛は善を不善化し、真理を誤謬化するその巧妙さでは他の愛にまさり、これを善人であれ悪人であれ、凡ゆる人間が主から得ている合理性の濫用により行っている。それは巧妙な理論により悪を善のように、誤謬を真理のように見せかける。それは幾多の議論を提出して、自然はそれ自身を創造し、次に人間を創造し、各種の動植物を創造し、また自然はその内なる自己から発する流入により人間を生かして分析的にまた賢明に考えさせると証明することもできるのに、何が出来ないことがあろうか。自己への愛はその好むものを何であれ極めて巧妙に証明するのは、虹色の光の一種の輝きで、その外の表面が作られているからである。この輝きは知的な誇りであって、それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている。
9.悪鬼の国は自分自身の理知を誇って、そこから主権[支配]を求める愛の中におり、かくて狂っている者らから成っている
啓示による黙示録解説387
悪魔の国は自己愛から発した主権[統治]への愛にいて、そこから愚劣な者となっている者らから成っている。なぜならこの愛は天的な愛に対立し、その愚劣さは天的な知恵に対立しているからである。しかし悪鬼の国は自分自身の理知を誇って、そこから主権[支配]を求める愛の中におり、かくて狂っている者らから成っている、なぜならこの愛は霊的な愛に対立し、その狂気は霊的な理知に対立しているからである。愚劣と狂気とにより天的な、霊的な事柄における愚劣と狂気とが意味されている。
10.あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることは出来ない
天界の秘義10227[18]
ルカ伝には―
あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることは出来ない(14・33)。
『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎ取ってしまわなくてはならないとしか考えることは出来ないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、なぜならたれ一人自分自身から賢明になることは出来ないのであり、ただ主のみから賢明になることが出来るのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることは出来ないのであり、即ち、『主の弟子』となることは出来ないからである。