地獄の光

 

1.石炭の火から発するような光

2.たいまつ

3.すき間越しに合理的なものを通して自然的なものの中へ流れ入るのみ

4.蛍のそれのような或いは沼地、硫黄を含んだ土、或いは腐敗した木材から発する光のような、偽りの光

5.その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなる

 

1.石炭の火から発するような光

 

天界と地獄553

 

しかしそうした外観は妄想である、なぜなら天界からの何らかの光線がながれ入るや否や、彼らの人間の形は、前に記したように、彼ら自身のあるがままの形である怪物の形に変化するからである。なぜなら天界の光の中では凡ゆる物はそれ自身においてあるがままに現れるからである。これがまた彼らは天界の光を避けて、火のついている石炭から発しているような光のような、ときには燃えている硫黄から発している光のような、彼ら自身の光の中へ自分自身を投げこむ理由であるが、しかしその光もまた、天界から何らかの光がその上にさしこむと、ただ暗闇に変化するのである。ここから地獄は暗闇と暗黒の中にあると言われ、暗闇と暗黒とは、地獄にあるような、悪から由来した誤謬を意味している。

 

 

天界と地獄584

 

 地獄は、至る所に、山や、岡や、岩の下にも、平原や、谷間の下にもある。山、岡、岩の下にある地獄へ通じている入口、または門は、穴や岩の裂目のように目に見え、あるものは拡がって、広く、あるものは窮屈で、狭く、その多くは凸凹が激しい。凡ては、その中を覗き込むと、暗く、また薄暗く見えるが、しかしその中にいる奈落の霊らは燃えている石炭から発してくるような光の中にいる。彼らの眼はそうした光を受けるのに適しているが、それは、彼らは世に生きている間、神的真理を否定することによって、その真理に対しては暗闇におり、誤謬を確認することによって、その誤謬に対しては一種の光にいたという理由によっている。そのため彼らの眼の視覚はこの光に適合するようになっており、またその同じ理由から天界の光は彼らには暗闇となり、それで彼らはその穴から出てくると、何一つ見えない。これらの事から、人間は神を承認して、天界と教会の物を自分の中に確認するに応じて天界の光の中に入り、神を否定して、天界と教会の物に反したことを自分の中に確認するに応じて、地獄の暗闇に入ることが明らかにされたのである。

 

 

天界の秘義3195[2]

 

 聖言には再三『光』のことが言われ、それにより内意では善から発している真理が意味されているが、しかし最高の内意では主は善と真理そのものであられるため、主御自身が意味されている。さらに事実として天界には光が存在しているが、しかしそれは地上の光よりは無限に明るく輝いており(1053、1117、1521−1533、1619−1632番を参照)、この光の中に霊たちと天使たちとは互に他を眺め、またそれにより天界に在る栄光はことごとく示されている。その澄明さについては、この光は実に世の光のように現れてはいるが、しかしそれでもそれはそのようなものではない、なぜならそれは自然的なものではなくて、霊的なものであり、その中に知恵を持っているからであり、かくて天使たちの眼前にそのように輝いているのである(2776番)。さらにこの光は人間の理解を、特に再生した人間の理解を明るくしているが、しかしそれは人間によっては、人間が身体の生命の中にいる限り、その時支配している世の光のために認められない。さらに他生では悪霊らも互に他を眺め、また霊たちの世界に存在する多くの表象的なものを見ており、しかも実にこれを彼らは天界の光から見てはいるが、しかし彼らの光は石炭の火から発するような光である、なぜなら天界の光はそれが彼らのもとに来ると、このような光に変化するからである。

 

 

2.たいまつ

 

天界の秘義1838[17]

 

たれであれ、その生活を憎悪と憎悪の醜悪なものの中に過ごして、万が一にも主を見まつるならその者にも全く同じようなことがおこるであろう、なぜならその者は主をその者の憎悪とその醜悪さからしか見まつることはできず、その憎悪と醜悪さが主から発する善と真理との光線を受ける器であってそれがその光線をそうした火と煙と暗闇とに変えてしまうからである。その同じ記事から『煙の炉』の何であるかが、また『たいまつ』の何であるかが明らかである。すなわち、それは最後の時に教会を占めてしまう最も甚だしい誤謬と最も汚れた悪である。

 

 

天界の秘義3224[2]

 

 単に世の光に属しているものの中にのみいて、そこから悪から派生している誤謬の中にのみいる霊たちは、他生で天界から発している光を実際得るには得ているが、しかしそれは迷妄の光のような光であり、あるいは火のついた炭または松明から発してくる光のような光であって、天界の光がそれに接近すると、この光は直ぐにも消滅してしまって、暗闇となるのである。この光の中にいる者は幻想の中におり、彼らは幻想の中に見るものを真理であると信じているのであり、またそれ以外のものは一つとして彼らには真理ではないのである。彼らの幻想はまた汚れた、猥褻なものに固く結びつけられており、そうしたものを彼らは特に歓んでおり、かくて彼らは気が狂って、精神が錯乱している人間のように考えるのである。誤謬については、彼らはそれがそうであるか、否かと論じはしないで、すぐさまそれを肯定はするが、しかし善と真理とについては、絶え間なく論じて、結局は否定してしまうのである。

                                                                                 

3.すき間越しに合理的なものを通して自然的なものの中へ流れ入るのみ

 

天界の秘義3679[4]

 

 思考における実情は以下のようになっている、すなわち、人間は身体の内に生きている限り、合理的なものから自然的なものの中に考えているが、しかし自然的なものが合理的なものに相応しているか、またはそのように相応していないかに応じてその考えは異なるのである。自然的なものが相応している時は、その人間は合理的なものであって、霊的に考えているが、しかし自然的なものが相応していないときは、その人間は合理的ではないし、またかれは霊的に考えることもできないのである。なぜならその自然的なものがその合理的なものに相応している人間のもとでは伝達[交流]が開かれ、かくて天界の光が主から合理的なものを通して自然的なものの中へ流れ入って、自然的なものを理知と知恵をもって明るくすることができ、そこからその人間は合理的なものになって、霊的に考えることができるからである。しかしその自然的なものが合理的なものに相応していない人間のもとではその伝達[交流]は閉じられてしまい、周りに多少の光が全般的に流れ入って、すき間越しに合理的なものを通して自然的なものの中へ流れ入るのみであり、その結果その人間は合理的なものではなくなり、また霊的にも考えはしないのである。なぜなら人間はその享受する天界の光の流入に応じて考えるからである。このことは人間各々は自然的なものの善と真理とが合理的なものと相応している状態に応じて考えていることを示している。

 

 

4.蛍のそれのような或いは沼地、硫黄を含んだ土、或いは腐敗した木材から発する光のような、偽りの光

 

真の基督教339

 

「人々は救い主イエス・キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの見える神に対する信仰であるからである。何故なら、人であり、また神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。信仰の本質は霊的なものであるが、その形は自然的であり、それ故信仰は人間の中に霊的且つ自然的なものになるのである。何故なら、霊的なものは凡て、人間がこれを現実のものとして所有するためには、自然的なものの中に受け入れられねばならぬからである。純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが、受け入れられない。それはエーテルの如きものであり、人間を感動さすことなくして彼に流れ入り、また流れ去って行く。人間を感動さすためにはそれは人間の心に認められ、且つ受容されねばならず、これは彼の自然的な心の中にのみ可能である。」

「他方単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれど、内的には霊性を欠いている故、その内には救うものは少しも存在しない。これがアリウス派、ソツヌス派のように、主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。信仰はその対象無くして何であろうか。それは空間を凝視し、視覚がそれ自らを虚空に失うようなものである。それは鳥が大気を越えてエーテルの中に飛び入り、真空内にあるように、息絶えてしまうに似ている。かかる信仰はイオラスの翼の風のように、流星の光のように、人間の心に止まることは出来ず、長く尾を曳く彗星のように現れると間もなく過ぎ去り、消え去ってしまうのである。約言すれば、見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。而して、このような信仰の光は霊的自然的なものでないため、蛍のそれのような或いは沼地、硫黄を含んだ土、或いは腐敗した木材から発する光のような、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。」

「これが見えない神に対する信仰の光であり、特に神がエーテルのような霊として考えられる時の光である。何故なら、そのとき人間は神をエーテルのように見、彼を物質的な宇宙に探し求め、そこに見出さないところから、自然が宇宙の神であると信ずるからである。これが現今流布している唯物論の源泉である。主は未だ嘗て父の御声を聞き、その御形を見た者はないと宣べ(ヨハネ5・37)また如何なる時にも神を見た者はなく、ただ父の懐に在す独子のみがこれを現し給うた(1・18)と述べ、神とともなる者が父を見た以外には何人も彼を見ない(6・46)と述べ、同様に何人も彼に由らなくては父に往くことが出来ない(14・6)、更に、彼を見、且つ認める者が父を見且つ認める者であると述べ給うた。」

 

「しかし、救い主に在す主なる神に対する信仰はこれと異なっている。彼は神と人である故、思考によってこれに近付き、これを見ることが出来るのである。かかる信仰は不確定なものではなく、一定の対象をもち、一度受け入れられた時、止まるのは、人はその一度眺めた皇帝或いは主の姿を思い浮かべることが出来るさまに似ている。その信仰の幻は、輝ける雲の真中に一人の天使がいて人間に来って天界に行くことを勧めているのを見るに似ている。主は彼を信ずるものにこのように現れ給うが、人間が主を知り、主を認める限り、即ち各人が主の誡命を知り、悪を避け、善を為すことによってその誡命に服従する限り、その人間に近づき給うのである。かくて彼は遂に、ヨハネ伝の以下の言にあるように、彼の中に在し給う父と共に人間の家に来り、その許に住み給うのである。イエスは語り給うた。「わが誡命を保ちて之を守るものは、即ち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん。我も之を愛し、之に己を顕すべし。かつわれ等その許に来りて住処を之とともにせん」(14・21、23)。上述したことは、私が筆を執っている間に、主から私の許に遣わされた主の十二人の使徒達の眼前に在って記されたものである。」

 

 

5.その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなる

 

天界の秘義10227[3]

 

賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているにすぎないのである、かれらはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。

 

彼らは真理そのものを認めることができないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることのできる者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰するほど、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。