天界の秘義7324

 

「その池の上に」。これは、彼らに役立った記憶知に対抗する、を意味していることは、『池』の意義から明白であり、それは教義の真理に役立つ記憶知であり、その対立した意義では教義の誤謬に役立つ記憶知である。『池』は、聖言に記されているときは、その霊的な意義では、善と真理とに関わる知識から発した理知を意味している、なぜならそこの『池』は水が共に集まったものを、または湖を意味し、水が共に集まったものと湖とは理知が発生する手段である知識の総合体を意味しているからである、例えばイザヤ書には―

 

 荒野から水が、荒野の平原には川が迸り出るであろう、干せ上がった所は池となり、乾いた所は水の泉となるであろう(イザヤ35・6,7)。

 

 

天界の秘義7324〔2〕        

 

 同書に―

 

 わたしは山腹に川を開き、谷の間中に泉を湧き立たせよう、わたしは荒野を水の池となし、干せ上がった地を水の泉となそう(イザヤ41・18)。

 

ここに『荒野を水の池となすこと』は、善と真理に関わる幾多の知識を、またそこから理知を、以前そうしたものが無かった所に与えることを意味しているのである。同書には―

 

 わたしは山と岡とを荒地となし、その草を乾かし、川と島となし、池を乾せ上がらせよう(イザヤ42・15)。

 

ここでも『池』は類似した意義を持っている。

 

 

天界の秘義7324〔4〕

 

『水の池』は、その対立した意義では、誤謬から発した悪を意味し、またそこから必然的に生まれてくる狂気を意味していることは、イザヤ書に明らかである―

 

 わたしはバベルから名と残りのものとを、息子と息子の息子を断ち去ろう、わたしはそれをさんかのごいの嗣業、水の池となそう(イザヤ書4・22、23)。

 

『池』はその対立した意義では誤謬から発した悪を、そこから必然的に生まれてくる狂気を意味しているため、それはまたそうしたものに支配されている地獄を意味しているが、しかしその場合はその池は黙示録19・20、20・10、14、15、21・8におけるように、『火の湖』、『火と硫黄との燃えている池』と呼ばれている。『火と硫黄』は自己への愛とそこから派生して来る欲念とを意味している、なぜなら自己への愛とその欲念とは火以外の何ものでもなく―元素的な火ではなくて、霊的な火から発している火であり、その霊的な火が人間を生かしているからである。愛が生命の火であることはそのことを考察する者には明らかである。この火が諸天界に在る聖い火と地獄の火により意味されているものであり、元素的な火はそこには存在しないのである。