家
1.意志と意志に属したもの
2.記憶知
3.その中に主の王国がまたは教会が存在している人間自身
4.善の中にいる者たち
5.教会
6.家を建てる
7.家に入る
1. 意志と意志に属したもの
天界の秘義710
『家』は意志と意志に属したものとを意味する
2.記憶知
天界の秘義1488
「彼の家」。これは、主が集められたところの(記憶知)を意味していることは『家』の意義がここでは集められた記憶知であることから明白である。記憶知を集め、それにより外なる人を形作ることは家を建てることに似ていなくはないのであって、それでそのような事柄が聖言の多くの記事で『建てること』により、また『家を建てる』ことにより意味されている、例えばイザヤ書には―
わたしは新しい天と新しい地とを創造する、彼らは家を建てて、そこに住むであろう、彼らはぶどう酒をつくってその果を食べるであろう、彼らが建てて、他の者が住みはしない(65・17、21、22)。
ここには『家』は知恵と理知とがあるところを意味し、かくて善と真理とにかかわる知識があるところを意味している、なぜならここには主の王国が、すなわち新しい天と新しい地とがとり扱われているからである。エレミヤ記には―
あなたらは家を建てて、その中に住みなさい、園をつくって、その果をたべなさい(29・5)。
ここでも意味は類似している。ダビデの書には―
エホバを恐れその戒めを大いに喜ぶ者は祝福されている。富と宝とはその者の家の中にあり、その者の義はとこしえにつづく(詩篇112・1,3)。
ここでは『富と宝』は知恵と理知の富と宝を意味し、かくて知識を意味しており、それが『その者の家の中に』すなわちその者の中にあるのである。
天界の秘義6690
「彼は彼らに家を作られた」。これは、彼らが、即ち、自然的なものにおける真の記憶知が天界の形に配置されたことを意味していることは、『家』の意義から明白であり、それは自然的な心であり(4973、5023番)、かくてこの心の幾多の事柄であり、それはここでは、助産婦が語られている為、自然的なものにおける真の記憶知であり(6687番)、それで『彼らの為に家を作ること』は、それらを秩序づけることを意味し、それらが天界の形に配置されるとき、それらは秩序づけられるのである。これが『彼らに家を作ること』の意義であることは、自然的な心の真の記憶知の実情のいかようなものであるかが知られない限り、容易に知られることは出来ない、それでこれを簡単に述べよう。自然的なものにおける記憶知は連続した幾多の組に配置されており、一つの組は他の組に密着し、かくしてその凡ては種々の類似性と近似性とに従って共に密着しており、その情況は家族とそこから生れた者たちに似ていなくはないのである、なぜなら一は他から生れ、そのようにしてそれらは(また)他のものを生み出しているからである。ここから諸善と諸真理である心の幾多のものは古代人により『家』と呼ばれ、そこを支配している善は『父』と呼ばれ、この善に結合した真理は『母』と呼ばれ、そこから派生したものは、『息子』、『娘』、『婿』、『嫁』などと呼ばれたのである。
3.その中に主の王国がまたは教会が存在している人間自身
天界の秘義1488 [3]
かくて聖言にはあまねく「家」は理知と知恵とが宿らなくてはならない人間の心を意味している。(中略)
『家』はその中に理知と知恵とが存在しており、またその中に意志に属した情愛が存在している心を意味しているため、聖言では家という言葉は広い意義を持っているが、しかしその特殊な意義の何であるかは、その言葉がそれについて述べられている事柄から認めることが出来よう。人間自身もまた『家』と呼ばれているのである。
天界の秘義2048
聖言では『家』は天的なものであるものを意味しているが、それは天的なものが最も内なるものであるためであり、ここから『神の家』により普遍的な意義では主の王国が意味され、それほど普遍的でない意義では、主の教会が意味され、個別的な意義では、その中に主の王国がまたは教会が存在している人間自身が意味されている。人間が『家』と呼ばれているときは、彼の中にある信仰の天的なものが意味されており、彼が『神殿〔宮〕』と呼ばれている時は、彼の中にある信仰の真理が意味され、かくてここに『家に生まれた者』により天的なものである者たちが意味されている。しかし『銀で買われた者』は霊的なものである者たちを意味していることは、『銀』の意義が真理であり、かくて信仰の霊的なものであることから明白である(第一部1551番)。
4.善の中にいる者たち
天界の秘義2233
『家』は善の中にいる者たちを意味していることは、『家』の意義から明白であり、それは善である(710,1708,2048番を参照)。『家』により、または家に生まれた者により、その抽象的な意義では、同じく善が意味されているが、しかしそれが人間に用いられるときは、それは善の中にいるすべての者を意味している。
天界の秘義3128
人間のもとに在る善は聖言では『家』にたとえられており、そうした理由から善の中にいる人間は『神の家』と呼ばれているが、しかし内なる善は『父の家』と呼ばれ、同じ度の中に在る善は、『兄弟の家』と呼ばれているが、しかし自然的な善と同じものである外なる善は『母の家』と呼ばれている。さらに善と真理とはすべて以下のように生まれている、すなわち父のものとしての内なる善が母のものとしての外なる善の中へ流入することによって生まれているのである。
天界の秘義3129
「レベカには兄があった」。これは自然的な人における善の情愛[善に対する愛]を意味していることは、聖言の『兄』と『妹』の意義から明白である、すなわち、『兄』は善の情愛であり、『妹』は真理の情愛である(367、2360、2508、2524番を参照)。なぜなら自然的な人の中にも、合理的な人におけるように、血縁関係が在り、またその中に凡ゆる物の相似性が在るからである(2556、2739番を参照)。そして心が、その合理的なものも、その自然的なものも、『家(または家族)』と呼ばれて、そこに両親、兄弟、姉妹、血縁、その他の親類が秩序をもって存在していることもまたこのことから発しているのである。
天界の秘義3142
家の意義は善(2233、2234、2559)
人間自身はその中に存在する善から家とよばれている(3128)
「掃く[掃除する]」ことは準備をして[備えをして]満たされることを意味している理由は、人間には家を掃く以外のことは、すなわち、悪のいくたの欲念とそこから派生してくる誤謬の信念を斥ける以外のことは何ら求められていないということである。なぜなら彼はその時善に満たされるからであるが、それは善は主から絶えず流れ入ってくるためである。しかしその善は「家」の中へ、すなわち、その流入を妨害するもの、すなわち、その流入してくる善を跳ね返すか、または歪めるか、または窒息させるかするものから清められている人間の中へ流れ入ってくるためである。ここから古代人にあっては、家を掃く、または清める、と言うことは、また道を掃いて、整えるということは普通のことであったのであり、家を掃くことにより幾多の悪から自己を清め、そのことにより善が入ってくるために自己を整えることが意味されたが、しかし、道を掃くことにより、真理が受け入れられるために自己を整えることが意味されたのである。
天界の秘義4973
「家」は善がその中に存在している心
天界の秘義5297
善、人間
5.教会
黙示録講解730ロ
あなたらの家は棄て去られている(ルカ13・35)
「棄て去られた家」は、善が存在しないため、真理が存在しない教会を意味している。
天界の秘義6692〔2〕
天界の秘義6692〔3〕
それで教会の表象的なものと表意的なものとが更に魔法に変化しないように、そのもとで教会の表象的なものと表意的なものとが回復されることの出来るイスラエル民族が取られたのであり、その民族は全く外なるものの中にいて、内なるものを何ら信じないし、ましてや霊的なものは何ら信じていなかったため、そこからは〔教会の表象的なものと表意的なものからは〕魔法的なものは何一つ作ることが出来ないといった性質を持っていたのである。こうした性格の民族の下では、エジプト人のもとに存在したような魔術は起る筈は無いのである。
天界の秘義6693〔4〕
(『パロ』は記憶知が存在している自然的なものであることは、前の5160、5799、6015番に見ることが出来、『鯨』は自然的なものにおける記憶知の全般的なものであり、42番、『魚』は全般的なものの下にある記憶知であることは、40、991番に見ることが出来よう)。『うろこ』は、明らかに外なるものであり、かくて感覚的なものであって、それに誤謬である記憶知が密着しているものを意味しているのである。地球
6.家を建てる
天界の秘義4390
「家を建てる」
外なる人に理知と知恵をおしえること(1488)
黙示録講解734ハ
[12]
『家を建てること』は教会を設立することを意味し、同じようなことが『ぶどう園を作ること』により意味されているが、『家』は善の方面の教会を意味し、『ぶどう園』は真理の方面の教会を意味している、なぜなら善も真理も教会が人間の中に存在するためには、人間の中に植えつけられねばならないからである。
7.家に入る
天界の秘義5776
『家に入ること』の意義は交流すること